[国宝100]第1回 天下人の間を揺れ動いた、「ミヤコの肖像」。
狩野永徳『洛中洛外図屏風』16世紀
室町幕府から織田信長、豊臣秀吉、そして徳川幕府へ。変転する時の政権をパトロンとして、約400年の長きにわたって日本の画壇に君臨した、世界でも類を見ない絵師集団こそ、狩野派である。
幕府や内裏、大名たちの居所を飾る障壁画を中心としたいわば「公共工事」を大人数で手際よく、しかも高いクオリティで施工するゼネコン的な活動を真骨頂として、狩野派は画壇の「華麗なる一族」へと成り上がった。とはいえ、組織力と権謀術数だけで成功できるというものではない。天才2代目、異才4代目、秀才6代目と、なぜか隔世で出現したスタープレイヤーたちが、盤石の基盤を築く。中でも突き抜けた才能を持ち、狩野派を「天下画工の長」へと押し上げた最大の功労者こそ、4代目の超絶天才、狩野永徳である。
しっかり者で絵もメチャ上手い2代目、元信が幼い頃からその才能を見抜き、将来一門の長とするために、厳格な長子相続の掟を曲げてまでその父である凡庸な三男に跡を継がせた、大本命の孫。父を差し置いて祖父から絵の手ほどきを受けた永徳は、わずか10歳で元信に伴われ、これも17歳の若き将軍・足利義輝のもとへ挨拶に赴いたという。
その多くが戦火の中で失われた永徳の作品は、描かれた年代まで特定できる真筆がごく少ない。それが近年、天正2年(1574)春に織田信長から上杉謙信へ贈られたことで知られる『洛中洛外図屏風』が、長い論争を経て永徳23歳(1565)の作と確認された。
恐らく注文主は幼い永徳と謁見した足利義輝。しかしその完成を待たずに義輝が戦死したため、行き場を失った屏風は9年の歳月を経て、天下人となっていた信長に永徳から献上され、さらに都を掌握する信長の権威の象徴として、上杉謙信に下賜されたというわけだ。
初めての出会いが天正2年以前のいつであったかはわからないが、いずれにせよ永徳の筆の冴えは信長の目に留まった。沈み行く室町幕府から次の権力者へ「お乗り換え」を成功させ、狩野派発展の礎ともなった絵に、永徳は京都の市中(洛中)と郊外(洛外)、そこで営まれる暮らし、風俗、生業を2485人もの人物とともに生き生きと描き込んだ。永徳自身がそうであったように、時の権力に翻弄された都は、黄金の雲に包まれ、今も光り輝いている。
狩野永徳『洛中洛外図屏風』16世紀後半、紙本金地着色、六曲一双、各159.5×363.5センチ 米沢市蔵
■米沢市上杉博物館
国宝「上杉本洛中洛外図屏風」原本展示
(米沢 愛と義のまち 天地人博2009)
会期:平成21年10月10日~11月6日
会場:米沢市上杉博物館企画展示室
山形県米沢市丸の内一丁目2番1号
TEL 0238-26-8000 FAX 0238-26-2660
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