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[国宝100]第2回 平等院鳳凰堂:極楽浄土のテーマパーク

 「前の戦争で焼けまして」の「戦争」が、第二次世界大戦ではなく応仁の乱(1467年)を指す、というのは、有名な京都ジョークのひとつだが、11年にわたって続き、戦国時代へ向かう契機となった内乱が京都にもたらした破壊は、実際第二次大戦の比ではなかったらしい。

洛中は兵馬に踏みにじられ、住人は逃げ去り、王朝以来の堂宇はことごとく灰燼に帰した。そんなわけで、京都市内には応仁の乱以前の建築がほとんど存在しないため、「空間ごと平安時代」を体験するには郊外へ足を伸ばさなければならない。

 王朝貴族にとっての宇治といえば、クルマ(牛車)で遊びに行く人気の避暑リゾート。万葉の時代から「八十氏河(やそうじがわ)」と詠われ、幾筋もの支流が流れる景勝の地、また水陸交通の要衝として発展してきた。

6人の娘を宮中に送り、3代の天皇の外戚として位人臣を極めた平安時代随一のパワーエリート、藤原道長の別荘もここにあった。しかし頂点に達したものは、やがて凋落する。そればかりでなく、当時の貴族たちの間に蔓延していた末法の世(釈迦の死後、その教えが効力を失うとされた暗黒時代)の到来に対する恐怖感も相まって、道長の子・頼通は、まさに末法元年と考えられていた1052年、ゴージャス別荘を寺にあらため、平等院と号した。その中心となるのが阿弥陀如来像を安置し、翼を広げた鳳凰にも喩えられる阿弥陀堂である。

 とかく弱い生き物である人間は、仏教についても現世の問題の解決には密教、来世の極楽往生を託すのは浄土教と、多様な教えを時と場合によって使い分けていた。浄土教の基本は念仏、といっても唱える方はごく一部で、メインは「極楽浄土のイメトレ(=念仏)」にある。

華麗な装飾に彩られた仏堂と、その周囲に清らかな池水を配した浄土庭園は、お手軽な「見るだけ浄土」として京都中の貴族の屋敷を席巻したが、平等院のそれは規模も意匠もカネのかけ方も、ぶっちぎりナンバーワン。「極楽いぶかしくば、宇治の御寺をうやまえ(極楽浄土の存在を疑うなら、平等院にお参りしなさい)」と童歌にも詠われ、まさに浄土のテーマパークとして宇治の川辺に威容を誇ったのだ。

かつてこの寺で撮影を行った土門拳は、仕事を終え、ふと振り返った阿弥陀堂の背後を染める夕焼けと、屋根の上から今にも飛び立ちそうな鳳凰像とに息を呑み、一度は片づけた大判カメラを慌てて構えたという。その時残したのが、「仏像も建築も風景も疾風のような早さで走る」という言葉だ。鳳凰堂の前に広がる阿字池の水面には、走り去った浄土の残像が今も静かに漂っている。

1053年、4棟(中堂、両翼廊、尾廊)、平等院蔵

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