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2009年10月

Luxury:ファッションの欲望 前編

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『小悪魔ageha』もびっくり、ロココのガツ盛りヘアはてっぺんにお花やお城や、時に帆船まで(!)載っているのだ。ちなみにハイヒール型のヘッドドレスを載せてみせたのはスキャパレッリ。この時代のファッションの引用であり、かつより過激に、本来地面に触れる靴を頭上に持ってくることで既成の価値観の転倒を試みている。

着飾るということは自分の力を示すこと──どう言い繕っても本音がダダ漏れるファッションへの欲望の本質を言い当てた、パスカル(1623-62)によるこの言葉に導かれ、稀少であること・美しいこと・手が掛かっていること=「Luxury」、削ぎ落とすこと・個人的な充足=「Luxury」、新奇であること・着るために努力を要すること=「Luxury」、そしてある文脈の中では唯一でオリジナルとされること=「Luxury」という、「Luxury」の4つの定義に従って、16世紀ヨーロッパの宮廷衣装からシャネル、ポワレ、バレンシアガ、そして川久保玲、マルタン・マルジェラまでを紹介するのが、現在東京都現代美術館で開催中の「Luxury:ファッションの欲望」展である(〜2010年1月17日まで)。


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圧巻のインスタレーション。前列左から2番目がポール・ポワレ。ハイウエストでやはりコルセットなしのゆったりしたドレス。一目でわかる豪奢さから、わかる人にはわかる、を目論んだ中央グリーンのドレスは、形はシンプルながら身頃全体に超絶ピンタックが施されている。「シンプルとは、複雑なものすべてを含んでいる」と言ったマダム・ヴィオネのドレス。

2008年6月号〜2009年4月号まで、小学館『和樂』で杉本博司×深井晃子による、20世紀ファッションを回顧する連載「流れの行くへ」を担当していたため、深井さんがキュレーションし、京都服飾文化財団のコレクションが出品されるこの展覧会は、以前から本当に楽しみにしていた。実は既に京都展(京都国立近代美術館、2009年4月11日〜5月24日)も見ているのだが、その時とはまた構成が変わり、いっそう焦点がはっきりしてきたように思う。京都展より建て込みが少ない、ある意味簡素な展示なのだが、ガラスなしで全方位からじっくり服を見ることができる。服飾やデザイン系の学生さんは、勉強のためにもぜひしっかりご覧いただきたい。

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18世紀の宮廷衣装。豪奢な絹織物がふんだんに使われた。

Luxuryとはなにか、というのが展覧会のテーマではあるけれども、やはり私自身が服を見るときまず第一に目がいくのは、身体との関わりだろう。宮廷装束がコルセットで腰を締め上げ、パニエでスカートを大きくふくらませ、生身の上にいわば「はりぼて」の身体の「殻」を人工的に造形しておいて、その上に服を着せて(貼り付けて)いくのに対して、ポール・ポワレやガブリエル・シャネルは、生身の身体を肯定し、本来のかたちに添う服、コルセットを必要としない服を作った。


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シャネルのデイ・ドレス。現代の服とほとんど変わりない、その後の女性服のプロトタイプ。

着やすく、動きやすく、実用的な、働く女性のための──といっても、現在にいたるまでシャネルの服を買えるのはそれなりの富裕層であることは間違いないが、それ以前の、家から出るのに許可がいるとか、着付けに数時間を要するとか、その種の服や規範に束縛されていた女性に比べて、シャネルの服をまとった女性たちは、画期的に自由で活動的だったことは間違いない。そして現代のあらゆる女性服に受け継がれている、このシンプリシティ。言い古された言葉だが、やはりシャネルは「服を作ったというより、スタイルを確立した」、20世紀ファッションの中核となるデザイナーなのだ。

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美しいけれどもある意味では「保守反動」のディオールによるイヴニング・ドレス。草花や格子柄のモチーフはウエスト部分で縮小され、広がったスカート部分で拡大され、ドレス全体のフォルムを視覚的により完璧なものにしている。ただのハリボテでは、もちろんないのである。

一方、現代的なカッティングの技術を駆使したとは言え、スカートのために20メートルとも50メートルともいわれる布地を使ったり、コルセットやパニエを用いたり、旧時代の価値観を復活させて大いに人気を博したのは、クリスチャン・ディオールである。第二次世界大戦中に実用一点張りの窮乏生活を強いられていた女性たちは、ポワレやシャネルらが台頭したことによって、過去の領域へ追いやられていった種類の美しさに飛びついた。

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上:ディオール時代にサンローランが手がけた初期の傑作「トラベラーズライン」。
下:ご存知サンローランのモンドリアン・ドレス。アートとの結合はスキャパレリも挑んでいる。

このディオールの元から飛び立った若き天才が、イヴ・サンローランだ。スキャパレッリが40歳、ディオールが41歳、シャネルでさえオートクチュールのアトリエを開設したのは30歳の時であったことを考えれば、25歳で店を持つことの異例さは明らかだろう。とはいえ、「身体」という観点に立てば、彼のアイディアに目新しい点はさほどない。重要なのはむしろ、見たこともない構造や形状の創造ではなく、新しい「文脈」の提案である。カトリックの道徳観が厳しく男女の性差を規定している国で、サンローランはオートクチュールという権威の下に、本来女性が公式の場で着ることなど考えられなかったパンツスーツやタキシードルックを打ち出した。ポワレが失敗し、シャネルですらビーチウェア、あるいは部屋着としてしか実現できなかった「女性がパンツを履く」という概念を、パーティの席からビジネスの場にまで広げることを、「時代」から選ばれたサンローランだけが成功させ得たのだ。

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左奥はマーク・ジェイコブスによるルイ・ヴィトンのコート。ブランドの価値と毛皮のプレステージを重ね合わせた。手前の列は右からポップで溌剌としたアンドレ・クレージュ。中央は貝殻や木、動物の歯など20種のビーズを刺繍したサンローラン。左はメタリックなシークイン刺繍を用い、スペースエイジの感覚を表現したピエール・カルダン。

というわけで、この回は前後編にて。次回はカッティングの魔術師バレンシアガ、バイアスの達人マダム・ヴィオネ、そして現代の川久保玲へといたる、ガチンコ身体系デザイナーたちの作品へ。

東京都現代美術館 
〒135-0022 東京都江東区三好4-1-1
2009年10月31日(土)~2010年1月17日(日)
午前10時~午後6時(入館は、閉館の30分前まで)
月曜休、ただし11月23日、1月11日(祝・月)は開館。翌日火曜日閉館。年末年始休。

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杉本博司が天の岩戸を開く日。

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だばだー、じゃなくて(それは某コーヒー飲料)。

現在発売中の幻冬舎『GOETHE』12月号で、Sントリーさんによるシングルモルトウィスキーのタイアップ記事を書かせていただいた。グラスを回しているのは巨匠、杉本博司である。

巨匠とウィスキーとの来し方行く末については記事をお読みいただくとして、現在杉本さんが構想中の小田原「スギモト・ランド」の概要について、コンパクトにまとまっている部分をご紹介しておこう。これは財団法人として運営されていく施設になるのだが、先日この財団理事に就任予定の某氏の元に届いた就任要請&受諾文書に本原稿が引用されていた。著作権料の請求をしなくては(笑)。

「現在、真鶴付近の海にせり出した傾斜地に、美術館を含めた複合施設を計画しており、僕自身の作品や蒐集してきた日本美術を展示したいと考えています。ある精神的土壌で育まれた「形象」が古美術品であるとすれば、神事や、そこから発展した能や狂言、文楽という芸能は、同じ土壌に発する「行為」だと言える。この施設には、演劇でもあり、祭祀でもあったような、祝祭的な「行為」のための空間を作りたいのです」

 180度以上を海に囲まれた岬の頂上部が、杉本の構想する舞台。カメラのレンズの材料となる、透明度の高い光学ガラスで作られた能舞台が遙かに海面を見下ろす中空に浮く。コンクリートの隧道になった橋懸かりは、地下に設置された古墳の石室を思わせる劇場への通路にもなり、年に1度、冬至の日に昇る太陽の光だけがこの隧道を貫いて、今しもガラスの能舞台へ出ていこうとする役者へと届く。

完成はまだ当分先の話になるだろうが、ベネッセアートサイト直島での家プロジェクト「護王神社」のオープニング記念能「屋島」や、2005年「杉本博司:時間の終わり」展での特別公演・能「鷹姫」、先日のIZU PHOTO MUSEUM(杉本さんが建物・庭園を設計。現在オープニング展「光の自然」開催中)オープニングでの「文楽三番叟」など、やがて現前するはずの「行為」の予兆としての芸能公演は、いずれも非常に魅力的なものだった。

芸能の原初の歓びに満ちているはずの、来るべき祝祭。近代以降閉じられたままの、芸能史の岩戸が開く日となるかもしれない。

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値頃、いや、根来放談@『アートコレクター』

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10月24日発売の『アートコレクター』12月号(生活の友社)は、特集「メイド・イン・ジャパンの実力~日本人の「技術力」って、あらためて凄い!!」。15代樂吉左衛門から、並河靖之による明治の七宝、装飾用義肢まで取り上げる中で、特集冒頭の「『根来』 スペシャル座談会 〝現代に数寄者はいるのか〟 田島 充+杉本博司+山下裕二」を担当させていただいた。

これは現在大倉集古館で開催中の「特別展 根来」に連動したもので(会場写真はこちら)、ロンドンギャラリー代表の田島充さん(古美術商)、おなじみ山下裕二教授(明治学院大学)、先日高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したばかりの杉本博司さん(現代美術作家)という、古いものも現代ものもヒジョーによく見ている上、いずれ劣らぬ毒舌家で、互いのつきあいは四半世紀に及ぶというお三方を集めて行われた。

今を去ること25年前、大学院生の山下裕二さんは、白洲正子もその実力を認めた新進気鋭(当時)の古美術商・田島充さんの扱う水墨画の名品を見せてもらいに、店へ通っていた。そこにはまだ作家稼業だけでは喰えないNY在住の杉本さんが、副業(ほとんど本業になりかけていたのだが)として営んでいた古美術商の仕入れその他に顔を出し、店主との古美術談義の合間に、若き山下院生の背中を見かけている…というわけだ。

それが現在では3人とも功成り名を遂げ(笑)、こうして顔を揃えて座談会を催すまでになりました、という山下教授の口上から、座談会は始まった。

開催場所は築地の料亭・新喜楽。毎年芥川賞、直木賞の選考会が行われることで知られ、建物は吉田五十八の手になる昭和の数寄屋。その大広間に出品作品の一部を並べての、豪華放談である。

話は縄文時代まで遡る日本の漆芸の端緒から始まり、研究の少ない漆工芸をどう評価していくべきか、根来寺はじめ寺社で作られていた漆器のあれこれ、日本における「朱」という色の聖性、内外のコレクションの状況からマーケットの動向まで、さすがお三方らしく、古今東西を自由に行き来する。

中でも注目すべきは、マーク・ロスコと根来の類似性、そしてロスコと杉本博司の新作、というあたりだろう。ここでネタバレするわけにはいかないので、興味のある方はぜひ雑誌をお買い上げの上、お読みいただきたい。

展覧会自体は、数十年ぶりに日本中からピカイチの根来ばかりが集められた、素晴らしいもの。杉本さんがもう何年も狙っている、平安時代まで遡る田島氏のコレクションも出展されている。出展作は今後長く「根来」の基準とされるだろう。こちらも皆さまぜひ、足をお運びを。詳細な展覧会紹介はまた後日アップします。

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井上雄彦×高校美術教科書

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日本の高校1年生のおおよそ3割が美術を履修するという。2年次、3年次での履修者は、そのさらに10分の1。そういう状況の中で、平成25年の改訂に向けた高校美術教科書の編集に携わっている。

ディープに美術に関わっている人ほど、学校の授業でやったことなんてさー、とお思いかもしれないが、両親ともにアーティストだとか、伝統的な芸道を継承する家だとか、特殊に文化資本が充実した家庭に生まれるのでもない限り、美術との第一次接近遭遇が「教科書」になる可能性は高い。

わが家にも「読まれない文学全集」は備え付けの家具的に置かれていたが、当然美術全集は存在しなかった。『日本美術応援団』で知られる美術史家の山下裕二教授(明治学院大学)によれば、「僕らの世代が最初に触れた『美術』は切手でしょ」となるらしい。

現在の切手のグラフィックはサイテー極まりないが、20世紀日本の切手のグラフィックは本当に素晴らしかった。山下教授と、教授と一緒に何本も美術の特集を作ってきた『BRUTUS』副編集長、フクヘンこと鈴木芳雄氏(二人は同い年)は、顔を合わせるたびに飽きもせず「『月に雁』『見返り美人』が僕らの国宝だよねー」と言い合って微笑む(ちなみに森村泰昌さんも同意見)。私も「また同じこと言ってるんですか」とお約束どおりに毒づいているのだが、かつて日本美術作品を数多くモチーフとして扱っていた切手グラフィックがとんでもなくハイクオリティだったことを認めるのは、やぶさかではない。

切手や教科書、あるいはカレンダーなどで触れた美術に、深入りするもしないもその人の人生だが、私自身が「こんなエエもん、放っておいたらもったいない」と思う対象だけに、その第一次接近遭遇がなるべく幸福な出会いになるよう、木っ端ライターなりに編集作業には力を尽くしたいのだ。

というわけで、本日第1回の編集会議に参加してきた。内容についてはここで明らかにするわけに行かないが、ひとつ驚いたことがある。

編集会議はジャンルごとに分科会に分かれて進められるのだが、この分科会を構成する編集委員は6人(うち1人が私)。皆さん、大学や高校の先生だったり実作者だったり、美術や美術教育のプロであり、かつその王道、本道を歩いて来られた方ばかりで、ケモノ道を匍匐前進してきたライター稼業とはお育ちが違うのである。

そこを混ぜっ返すのが自分の役割と心得ていたのだが、会議の終盤、マンガ表現をどう扱うか、という話題になったとき、期せずして話が井上雄彦さんに及んだ。『BRUTUS』では2008年7月1日号で井上雄彦特集を組み、非常に大きな反響を得ている。私も同特集で井上さんのインタビューを担当したのだが、編集委員の方が口々に「あ、それ私も読みました」「僕、買いましたよ」「コンテからすごいですよね」「面相筆で描いてるんでしょ」とおっしゃるのである。

教科書に井上作品を載せたいとか、マンガの社会的・美術史的地位を、教科書という「権威」によって保証しようとかいう話ではない。ブランクーシの「鳥」も、伊藤若冲の「葡萄図」も、井上雄彦のマンガも、同じ地平で論じることのできる人たちと美術の教科書を作っていく、ということに、なんだか希望を感じるのだ。

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春慶塗の職人さんに会う。

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「チャイナ」が陶磁器なら、日本を代表する工芸品として海外では「ジャパン」と呼ばれ、高く評価されているのが、日本製の漆器。

とかく「晴れの日のための」「扱いが面倒そう」「高そう」など、日常使いには向いていないと思われがちな漆器だが、香辛料も油脂もどんとこい、毎日ガシガシ使ってもそうそう簡単には割れない、欠けない、(もちろん)錆びない、と、モノグサ派にはうってつけの食器なのだ。

しかも手に取り、椀の縁に唇をつければ、陶器も磁器も及ばない、柔らかく滑らかな、官能的といえるほどの触感にうっとりする。

漆は一度乾燥すると酸、アルカリ、アルコールなどの薬品に侵されず、防水・防腐性に優れ、熱や衝撃から器を保護する理想的な塗料として、日本列島では縄文時代前期、約5千~6千年前にはすでにその利用が始まっており、福井県の鳥浜貝塚からは堅い薮椿に鮮やかな朱漆を塗った飾り櫛が出土している。

この漆をテーマに、12月末から始まるある展覧会(詳細は公式発表後に本ブログでもお知らせします)に関わる取材で、岐阜県高山市の春慶塗を取材してきた。

それは16世紀の初頭に遡る。大工棟梁・高橋喜左衛門が偶然打ち割ったサワラに生まれた美しい枇目(へぎめ)を活かして盆を作り、藩主・金森可重(かなもり・ありしげ)の息子、重近(しげちか)に献上したところ、重近は御用塗師(ぬし)の成田三右衛門に塗りを施させた。木目を透かす「透き漆」仕上げが、あたかも瀬戸焼の茶入「飛春慶(とびしゅんけい)」を思わせる肌合いであったことから、可重が「春慶塗」と命名。これが春慶塗の始まりとされる。

輪島などに代表されるマットで不透明な漆ではなく、透明な漆の皮膜の下に、木目が透けて見えるのが春慶塗の特徴。

塗師が上塗りに使う漆は、木から掻き取ったものを、業者が2回程度濾して、不純物を取り除いた状態で販売される。しかし今回取材させていただいたTさんという塗師の方は、掻き取ったそのままの漆を自ら濾し、その時々でつくる製品の性格、天候などの条件に合わせて、漆の乾く速度や粘度、色味などを調整している。

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写真は吉野紙という和紙を7枚重ねたもので漆液をキャンディ状に包み、ゆっくり絞って、不純物を濾し取っているところ。だいたい3回繰り返すことで、上塗り用に使えるクオリティになるという。

埃や温度、湿度がコントロールされた作業部屋でわくわくしながら漆濾しの作業を見ていたのだが、案内してくれた問屋さんをはじめとする関係者の方々は窓ガラス越しにこちらを見ているだけで、入室はしない。取材しやすいようにという気遣いかと思っていたら、あとで「室内には漆の粒子が飛んでるでしょ。敏感な人は3日後くらいにかぶれるんですよー」と言われた。先に教えて下さいよ、先に。

というわけで戦々恐々「3日後」を待っている。月曜の夜までに何もなければセーフ、のはずなのだが。あれ、なんか頬のあたりがむずむずするような……。

追記:
お師匠様からのご指摘を受け、ルビ「ひしゅんけい」→「とびしゅんけい」、茶壺→茶入に訂正いたしました。まだまだ勉強、でございます。ぺこり。

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起稿の達人。

音声起稿、いわゆるテープ起こしというヤツだが、そんなの誰がやっても同じだと思ってはいないだろうか。

私の場合、インタビュー音声は自力で起こし、原稿化するのが普通。切羽詰まったスケジュールで仕事をしているため、外注するとなると目の玉の飛び出るような特急料金をふっかけられてしまうからだ。それに自分でしたインタビューであれば、はしょってもいい個所はわかる。大事なところだけをピックアップして、毎回滑り込みセーフ(判定は限りなく黒に近い灰色だと思うが)で入稿しているのである。

だが、とんでもない量の仕事がバッティングしてしまったり、鷹揚な版元が「エエよ」と言ってくれたりで、音声起稿の外注ができるとなると、頼むのはここしかない。(有)コミュニティプラザさんである。

最初は料金がリーズナブルだから頼んだ…ような気がするが、そのうち起稿のレベルの高さが他の追随を許さないことに気がついた。某大手速記会社に頼んだこともあるが、中学生のバイトでも雇ってるのか、とどつきたくなるような聞き間違い、誤字(というより単語を知らなさすぎ)の頻出で倒れそうになった。

ところがこちらは安倍季昌さんの「千年前から宮中に奉職する楽家でして」トークも、橋本治さんの「平家物語の原文引用しまくり」トークも、術語から原典までほとんど完璧に調べ上げ、テキストを仕上げてきて下さるのである。受け取ったテキストに、なんど随喜の涙を流したことか(笑)。

殊に、お名前は存じ上げないが小豆島にいらっしゃるという凄腕の「起稿マスター」様には、毎回本当にお世話になっている。

拙ブログをご覧になっている出版社の皆さまには、強力にお勧めしたい会社なのだが、「行列のできる音声起稿」になってしまうと、私のむちゃ振り仕事を受けていただけなくなるのではと、それだけが心配である。

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三上敏視『神楽と出会う本』

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ピアノもバイオリンも、幼少時のお稽古事はことごとく挫折した私だが、楽や舞を愛する気持ちだけは人一倍ある(と思う)。

その上、人類学&民俗学徒の端くれでもありたい人間には辛抱たまらんのが、刊行されたばかりの三上敏視氏による『神楽と出会う本』だ。

日本の民俗音楽が、安定感ある稲作系のズンドコ・リズムばかりだと思ったら大間違い。「島」や「山」には、夜を徹してグルーヴィーなお囃子が演奏される、「まるでレイヴ」な神楽がまだまだ残っている。

ミュージシャンでもある三上氏ならではの、マジメ一辺倒な研究書ではなかなかお目にかかれない秀逸な解説を目にすれば、神楽に特に興味のない(というか存在さえ知らない)ジャズフリークやロックファンも、興味を抱かずにはいられないはずだ。

──山口県の三作神楽には十拍子パターンのお囃子がある。太鼓が五拍のパターンを繰り返し、笛がその二倍の十拍でワン・パターンなのである。ジャズの名曲「テイク・ファイヴ」と同じように、二拍子と三拍子の組み合わせのノリなので、変拍子の違和感はない。(中略)
 これがさらに8ビート系とシャッフル系に分かれ、16ビートっぽくなったり、シンコペーションが付いたり、休符が付いたり、まれに三連符が入ったりして組み合わされることで、全国各地に多様なバリエーションが育っているのである。(4章:神楽の音楽とお囃子)

ほら、読みたくなってきたでしょ?

伝統芸能界の「フジロック」、毎年12月に奈良・春日大社で催される春日若宮御祭(かすがわかみやおんまつり)の話も書きたいけれど、それはまた今度。

『神楽と出会う本』
三上敏視:著
発行:アルテスパブリッシング
A5判 240ページ 並製
定価:2,200円+税  
ISBN978-4-903951-22-5 C1073

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[国宝100]第2回 平等院鳳凰堂:極楽浄土のテーマパーク

 「前の戦争で焼けまして」の「戦争」が、第二次世界大戦ではなく応仁の乱(1467年)を指す、というのは、有名な京都ジョークのひとつだが、11年にわたって続き、戦国時代へ向かう契機となった内乱が京都にもたらした破壊は、実際第二次大戦の比ではなかったらしい。

洛中は兵馬に踏みにじられ、住人は逃げ去り、王朝以来の堂宇はことごとく灰燼に帰した。そんなわけで、京都市内には応仁の乱以前の建築がほとんど存在しないため、「空間ごと平安時代」を体験するには郊外へ足を伸ばさなければならない。

 王朝貴族にとっての宇治といえば、クルマ(牛車)で遊びに行く人気の避暑リゾート。万葉の時代から「八十氏河(やそうじがわ)」と詠われ、幾筋もの支流が流れる景勝の地、また水陸交通の要衝として発展してきた。

6人の娘を宮中に送り、3代の天皇の外戚として位人臣を極めた平安時代随一のパワーエリート、藤原道長の別荘もここにあった。しかし頂点に達したものは、やがて凋落する。そればかりでなく、当時の貴族たちの間に蔓延していた末法の世(釈迦の死後、その教えが効力を失うとされた暗黒時代)の到来に対する恐怖感も相まって、道長の子・頼通は、まさに末法元年と考えられていた1052年、ゴージャス別荘を寺にあらため、平等院と号した。その中心となるのが阿弥陀如来像を安置し、翼を広げた鳳凰にも喩えられる阿弥陀堂である。

 とかく弱い生き物である人間は、仏教についても現世の問題の解決には密教、来世の極楽往生を託すのは浄土教と、多様な教えを時と場合によって使い分けていた。浄土教の基本は念仏、といっても唱える方はごく一部で、メインは「極楽浄土のイメトレ(=念仏)」にある。

華麗な装飾に彩られた仏堂と、その周囲に清らかな池水を配した浄土庭園は、お手軽な「見るだけ浄土」として京都中の貴族の屋敷を席巻したが、平等院のそれは規模も意匠もカネのかけ方も、ぶっちぎりナンバーワン。「極楽いぶかしくば、宇治の御寺をうやまえ(極楽浄土の存在を疑うなら、平等院にお参りしなさい)」と童歌にも詠われ、まさに浄土のテーマパークとして宇治の川辺に威容を誇ったのだ。

かつてこの寺で撮影を行った土門拳は、仕事を終え、ふと振り返った阿弥陀堂の背後を染める夕焼けと、屋根の上から今にも飛び立ちそうな鳳凰像とに息を呑み、一度は片づけた大判カメラを慌てて構えたという。その時残したのが、「仏像も建築も風景も疾風のような早さで走る」という言葉だ。鳳凰堂の前に広がる阿字池の水面には、走り去った浄土の残像が今も静かに漂っている。

1053年、4棟(中堂、両翼廊、尾廊)、平等院蔵

※掲載記事は公開開始から1ヶ月を過ぎると、タイトル表示のみとなります。

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婦系図。

といっても、泉鏡花の小説の話ではない。

『和樂』新年号から始まる、水戸徳川家の文物をご紹介していく連載の仕込み中で、やれ日光だ、水戸だと、走り回る日々なのだが、水戸の彰考館徳川博物館で開催中の企画展「江戸コレ」(〜12月13日)で面白いものを見つけた。『徳川氏親姻図解』と題された「系譜図」で、家康公の父、松平広忠公から始まって将軍家は綱吉公まで、水戸徳川家は三代綱条公(つなえだ・光圀公の子)まで、江戸時代初期の徳川家の系図が記されている。

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ご覧の通り、松平広忠&徳川家康を中心に、姻戚が放射状に広がっていく様子が一目でわかる。わずか3〜4代を重ねるだけで、ファミリー・トゥリーがここまで枝を広げるのかと驚かれるかも知れないが、試しにご自分の一族の系図を書いてみれば、たちまち手元の紙を埋め尽くし、横へ横へと広がる枝に、お手上げとなるはずだ。

日本一有名な(?)系図といえば、京都府宮津市の籠神社(このじんじゃ)に伝わる国宝『海部氏系図(あまべし・けいず)』だが、これは長さ228.5cmの巻子仕立てに縦書きされたもので、『徳川氏親姻図解』とはだいぶデザインが異なる。

ちなみに江戸時代、水戸藩主であった徳川光圀公が「大日本史」編さんのために拝見したいといったところ、「(系図は)ご神体であるからみせることはできない」と時の宮司が断ったという話もある。

この『徳川氏親姻図解』のユニークなところは、放射状に系図を書いたところだが、なぜそうなっているのかといえば、他家へ嫁いだ家康の血縁の女性までことごとく記載しているから。江戸時代の家系図に女性の動向がここまで詳細に書かれることはほとんどないようだが、本図を見ると、有力大名のほとんどが徳川家と姻戚関係を結んでいたことがよくわかる。

日本の政治史を読み解くとき、父系から眺めるのと、母系から眺めるのとでは、見えてくる景色がまったく違うという。橋本治さんが『双調平家物語』を書くに際して、中世あたりまでの天皇家の系図を母系で記してみたらあらびっくり……という話を以前書いておられた。そういう歴史のキモがダイレクトに理解できてしまう、実はかなりデンジャラスな『徳川氏親姻図解』、できればミュージアムグッズとして風呂敷にでも仕立ててほしい。

彰考館 徳川博物館
茨城県水戸市見川1-1215-1
Tel : 029-241-2721
Fax : 029-243-0761

10:00 〜 16:30 火 〜 金
10:00 〜 17:00 土・日・祝
※ 入館は閉館の30分前まで。
水戸駅(北口)から
タクシ−で約10分
バス4番のりば 茨城交通バス3又は37系統 「見川2丁目」下車、徒歩5分

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ベネッセアートサイト直島Webリニューアル中。

日本美術、と銘打ってはいるけれど、現代美術からまったく離れてしまっているわけでもない。何人かのアーティストとの、形になった仕事、進行中の仕事がぽつぽつある中で、これから面白くなりそうなもののひとつが、ベネッセアートサイト直島のウェブサイト・リニューアルの仕事である。

増築に増築を重ねた結果、「これホントに消防署からマル適マークもらってるの?」的な迷宮状態になっている旅館を時々見かけるが、リニューアル前のサイトがまさにそんな感じだった。第1期リニューアル工事(?)は、この迷宮状態を解消し、必要な情報にスムースにたどり着けるよう、整理することから始まった。

アートディレクションは原研哉氏、制作は日本デザインセンターのWebデザイン研究所、コーディネーションとテキスト担当は橋本麻里。ビジュアルはこれまで蓄積してきたものも生かしつつ、撮り下し部分は森本美絵さんにお願いした。

原氏のディレクションの要諦のひとつは、必要十分な情報が適切に配置された「地図を生かす」ということ。それがオープニングの世界の中の日本、日本の中の瀬戸内、瀬戸内の中の直島、というアニメーションから、島内の詳細な地図へ、という構成に反映されている。

現在公開されているのは、リニューアル後、数度のマイナーチェンジを経たバージョン。使いやすく、すっきりはしたけれども、ややスタティックに過ぎるのでは、という意見もあり、もう少し「現代」美術らしいライブ感や、ある種の猥雑さもほしいということで、「別腹」としての新しい連載企画を検討中なのである。

先日の東京での打ち合わせでは、連載企画の他にも実現したらめっちゃ面白いだろうなー、というアイディアが上がっている。本ブログ読者の方にも少なからぬ直島ファンがいるものと思うので、ウェブサイトに望むことや、現サイトの使い勝手についての感想、こういうアイディアはどう? というご提案などあればぜひ、お知らせいただきたい。

ちなみにまったくの偶然だが、原氏とベネッセホールディングス会長の福武總一郎氏は、小学校、中学校、高校までまったく同じコースという、同郷の先輩後輩関係。そのことを互いに知ったのはウェブのリニューアル後、初顔合わせの席で、だそうだ。

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ワールドアパートメント・ホラー

最近聞いた、恐るべき現代美術コンフィデンシャル。

売れっ子現代美術作家、C・BとS・CとA・M(全員日本人ではない)は、同じアパートメントハウス(内のそれぞれ別の部屋)に住んでいるらしい。

名前がわかった方は、コメント欄より投稿を。

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狩野光信、桃山のヴィジョン。

ちょうど狩野永徳の話を書いた後で、永徳の息子・光信の障壁画(国宝)を撮影する機会に恵まれた。

大徳寺聚光院方丈にはかつて、狩野永徳による襖絵(国宝)がめぐらされており、桃山時代の建築空間に、同時代の障壁画、という組み合わせを体験することができた(基本的に非公開)。ところが2007年、狩野永徳展を前にレプリカが制作され、オリジナルは収蔵庫保管となってしまう。貴重な作品をより良い状態で保存するにはやむを得ない仕儀、といわれればその通りだが、桃山の空間をそのままに経験する機会が減っていくのは、残念と言わざるを得ない。

スキャン&印刷技術の発展によって、京都に限らず、あらゆる場所で複製画との「置き換え」が進んでいる現在、桃山時代の建築の中で、同時代の障壁画を観ることができるほとんど唯一の場所が、この園城寺勧学院なのである。

琵琶湖畔に建つ天台寺門宗園城寺は、飛鳥時代まで遡る創建の伝承を持ち、858年、比叡山で「顕密を習学し、他宗を博覧し、才藻倫を超え、智略尤も深し」と称えられた円珍和尚が、唐から請来した膨大な経典、法具を納めるべき新天地として再興した寺。

天台教学では抜きん出ていたものの、密教に関しては高野山に後れを取っていた比叡山が、一気にそれを取り戻すことができたのは、ひとえに円珍の功績による。延暦寺別院として再興された園城寺は、この密教修験の一大センターだったのだ。

勧学院客殿は学問を講じる場として1600年に建築された。その内部の障壁画を描いたのが、桃山画壇の覇者・狩野永徳の息子、狩野光信である。

複雑に交差した金雲と、その合間から姿を覗かせるすっきりとした木立ちが、父・永徳とは異なる繊細優美な抒情を湛えて、薄闇の中に浮かび上がる。その襖を引き開ければ、また次の間、次の襖が幾重にも重なり合って、光のレイヤーを作り出していく。この時代の金碧障壁画が建物ごと残っている勧学院でなければ体験し得ない、リアルな桃山の「視覚」そのものだ。

今回の撮影に立ち会って下さったのは、執事補の小林慶吾さん。千宗屋さんの高校時代からの友人で、現在園城寺の文化財の管理、補修等を担当されている。先日の台風で京都〜滋賀一円の古社寺が相当な被害を受けたため、今後しばらくは檜皮の奪い合いですわ、と苦笑いされていた。また勧学院の蔵には質素な文机が相当残っているとのこと。これは勧学院が学問所として機能していた当時の「什器」らしい。

撮影終了後、31年に1度の公開となる秘仏如意輪観音像が公開中(〜11月30日、2010年3月17日〜4月18日)とのことで、観音堂へ参拝した。拝観者に説明をしているお坊さんに見覚えがある。……と思ったら、前回勧学院を撮影したときの担当者、梅村さんだった。

大きなお寺ではお坊さんも部署を異動していく。現在、釈迦堂の解体修理を担当している小林さんが園城寺の長老として采配をふるう頃、また古建築の大規模な解体修理がめぐってくるだろう。その時、若手に「あーせい、こーせい」と指導し、文化庁との折衝ノウハウを伝えていけるよう、古寺は数十年単位で人事の見通しを立てている。千年以上にわたって存在し続けてきた組織の行政テクニックは、そこらの「近代国家」や「一部上場企業」など及びもつかない足腰の強さを持っているのである。

園城寺勧学院 特別拝観の要領(園城寺公式HPより)

特 別 拝 観
(3名様より承ります)
光浄院客殿勧学院客殿の一般公開は致して
おりませんが、特別拝観をご希望の場合は、
下記の申し込み要領にて当山までお申し込みください。

(1)特別拝観志納金
入山志納金とは別に、光浄院、勧学院とも各600円
(一人)
が必要になります。
※各客殿とも当寺の者がご案内いたします。
※授与品として絵はがき2葉が付きます

(2)特別拝観の申し込み方法
下記の項目を明記の上、往復ハガキまたは特別拝観
申込書にてお申し込みください。
1.住所
2. 氏名(団体名・代表者)
3. 連絡先・電話番号
4. 人員数
5. 拝観希望日時(第2希望までご記入ください)
6. 拝観場所(「光浄院客殿」、「勧学院客殿」、
  または「両方」とをご記入ください。)

※拝観時間は9:30〜15:30
※3名様以上に限りますのでご注意ください。

(3)申し込み宛先(お問い合せ先)
〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町246
園城寺(三井寺)事務所(特別拝観係)

TEL 077-522-2238
FAX 077-522-2221

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国宝100、試行公開。

予告どおり、「国宝100」の第1回を公開しました。初回は狩野永徳『洛中洛外図屏風』です。

地元米沢での公開はゴールデンウィーク、そして秋の2回が定例ですが、ちょうど現在公開中ですので、タイミング的にもいいかな、と。京都国立博物館「日蓮と法華の名宝」展では、この作品に先行する歴博甲本『洛中洛外図屏風』が出品中(国立歴史民俗博物館蔵、10/10~25)ですので、見比べてみるのも興味深い経験でしょう。

この『洛中洛外図屏風』とはなにかとご縁が深く、かつて『AERA』で連載していた「ART BIT」では、本作を本歌取りした会田誠『紐育空爆之図』と、オリジナルとを右左に置き合わせて撮影したことがあります。その後、『BRUTUS』国宝特集の際にも撮り下ろしをご許可いただいたり(残念ながら立ち会えませんでしたが)、先日サントリー美術館の展示でも再会したりと、気がつけば毎年のように顔を合わせている作品です。

ブログ上では『ポンツーン』誌上で既発表のもの、また今後『ポンツーン』誌上には掲載しないものを、公開していきたいと考えています。ただ最終的に新書にまとめるものですので、「出しっ放し」というのも憚られます。現状、公開開始から1ヶ月程度で本文非表示とし、タイトルだけリスト的に残していく形にしようかなあ、と。

とりあえずは書きながら、いい形を探りたいと思ってます。国宝マラソン、沿道からのご声援が頼りですので、どうぞよろしくお願いします。ドリンクの差し入れなど、心待ちにしております。ぺこり。

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[国宝100]第1回 天下人の間を揺れ動いた、「ミヤコの肖像」。

狩野永徳『洛中洛外図屏風』16世紀

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室町幕府から織田信長、豊臣秀吉、そして徳川幕府へ。変転する時の政権をパトロンとして、約400年の長きにわたって日本の画壇に君臨した、世界でも類を見ない絵師集団こそ、狩野派である。

幕府や内裏、大名たちの居所を飾る障壁画を中心としたいわば「公共工事」を大人数で手際よく、しかも高いクオリティで施工するゼネコン的な活動を真骨頂として、狩野派は画壇の「華麗なる一族」へと成り上がった。とはいえ、組織力と権謀術数だけで成功できるというものではない。天才2代目、異才4代目、秀才6代目と、なぜか隔世で出現したスタープレイヤーたちが、盤石の基盤を築く。中でも突き抜けた才能を持ち、狩野派を「天下画工の長」へと押し上げた最大の功労者こそ、4代目の超絶天才、狩野永徳である。

しっかり者で絵もメチャ上手い2代目、元信が幼い頃からその才能を見抜き、将来一門の長とするために、厳格な長子相続の掟を曲げてまでその父である凡庸な三男に跡を継がせた、大本命の孫。父を差し置いて祖父から絵の手ほどきを受けた永徳は、わずか10歳で元信に伴われ、これも17歳の若き将軍・足利義輝のもとへ挨拶に赴いたという。

その多くが戦火の中で失われた永徳の作品は、描かれた年代まで特定できる真筆がごく少ない。それが近年、天正2年(1574)春に織田信長から上杉謙信へ贈られたことで知られる『洛中洛外図屏風』が、長い論争を経て永徳23歳(1565)の作と確認された。

恐らく注文主は幼い永徳と謁見した足利義輝。しかしその完成を待たずに義輝が戦死したため、行き場を失った屏風は9年の歳月を経て、天下人となっていた信長に永徳から献上され、さらに都を掌握する信長の権威の象徴として、上杉謙信に下賜されたというわけだ。

初めての出会いが天正2年以前のいつであったかはわからないが、いずれにせよ永徳の筆の冴えは信長の目に留まった。沈み行く室町幕府から次の権力者へ「お乗り換え」を成功させ、狩野派発展の礎ともなった絵に、永徳は京都の市中(洛中)と郊外(洛外)、そこで営まれる暮らし、風俗、生業を2485人もの人物とともに生き生きと描き込んだ。永徳自身がそうであったように、時の権力に翻弄された都は、黄金の雲に包まれ、今も光り輝いている。

狩野永徳『洛中洛外図屏風』16世紀後半、紙本金地着色、六曲一双、各159.5×363.5センチ 米沢市蔵

米沢市上杉博物館
国宝「上杉本洛中洛外図屏風」原本展示
(米沢 愛と義のまち 天地人博2009)
会期:平成21年10月10日~11月6日
会場:米沢市上杉博物館企画展示室
山形県米沢市丸の内一丁目2番1号
TEL 0238-26-8000 FAX 0238-26-2660

※掲載記事は公開開始から1ヶ月を過ぎると、タイトル表示のみとなります。

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連載予告。

幻冬舎新書から出しましょう、と言っていただいているにも関わらず、2年以上前から全然原稿を書いていない本がある(いや10%くらいは書いたかな)。国宝を彫刻から絵画、各種工芸まで100件取り上げ、1件1見開き(2ページ)でサクサク紹介していこう、というものだ。

もちろんただサボっていたわけではなく、目の前の締切に追われていたら、そっちの原稿を書く時間がなくなってしまったのだ。だが担当編集のO島さんにいつまでもご迷惑をおかけするのも心苦しいため、ちょっとずつでも締切を作って書きましょう、ということで、現在『ポンツーン』で連載させていただいている。

しかし月刊ペースで1話ずつ書いていっても、100話溜まるのは……? 

そのような次第で、このブログ上で週刊連載することにした。少なからぬ知り合いが見ているところで宣言してしまえば、もう退路も断たれるわけだし。できれば週2回くらい書いていきたいところだが、最初から無理めな目標を立てるのは止めておこうっと。

O島さん、がんばります。

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『BRUTUS』美しい言葉特集、発売です。

10月15日発売の『BRUTUS』673号は、特集「美しい言葉」

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今回記事を書かせていただいたのは、「村上春樹、美しいニッポン文学の未来。」「橋本治の、よくわかる美文講座。」そして「日本語の美しいデザイン。」である。えー、日本美術じゃないじゃん、などとはおっしゃらず、しばらくお付き合いいただきたい。

「村上春樹、美しいニッポン文学の未来。」は、高橋源一郎氏の解説による村上春樹作品の読み解きなのだが、ハルキ文学の批評は通常、内容からなされることがほとんど。しかし特集テーマは「美しい言葉」であるからして、中身ではなく、言葉の話をしなければならない。というわけで、高橋氏にはハルキ文学の「表現」の特徴について解説して下さい、と依頼した。ところが取材当日語られたのは、氏が最近講談社の『群像』誌上で連載を開始した「日本文学盛衰史:戦後文学編」最終回に予定しているという、ハルキ文学の驚くべき秘密だったのである。

いやー、びっくりしたなあ、もう。

という内容だったのだが、出し惜しみではなく純粋に紙幅の都合上、秘密の「核心その2」については記事に掲載することができなかった(核心その1は『BRUTUS』をお買い上げの上、誌面でご覧下さい)。数年後にやってくる最終回のネタ全部を割ってしまわなくて、結果的によかったというべきかもしれないが、それにしてもタイヘンにもったいない。なにしろレイアウトでは原稿用紙11枚分の文字数しかないのに、取りあえず載せたいことを全部書いてみたら、55枚分になってしまったという大ネタなのだ。

どういう内容か、数年後に件の最終回が発表されるまで待てない人のために簡単に書くと、要するに村上春樹がアムロ・レイで、大江健三郎がシャア・アズナブルだと言うような話だ(ホントか?)。

……しかしこういう記事を書いておきながら、実は私自身はハルキ文学にちーともシンパシーを感じられない人間なのである。現象としての村上春樹ブームにはとても興味があるけれども、入れ込んで読む対象ではないのだ。なにせ最近一番面白かった小説が、上村菜穂子『獣の奏者』完結編なんだから。

上村菜穂子(作家であるのと同時にアボリジニの研究者)については語りたいことが多すぎて困るが、これは私の学問的出自が日本美術史ではなく、文化人類学であることにも起因するのだろう。かつて文化人類学者である叔父(=モノンクル。中沢新一における網野善彦というか、要するに「僕の叔父さん」なのだ)の本棚で発見したカスタネダの「呪術師」シリーズは、本文が読めもしない未就学児童にとってさえ、途轍もなく衝撃的かつ魅惑的だった。なにしろタイトルが「呪師に成る」ですぜ(笑)。とにかく文化人類学というのはとんでもなくヤバくて面白い学問に違いないという幼い頃の刷り込みによって、大学で専攻するまでに至ったわけだが、その後流れ着いたのは日本美術の岸辺なのだから、人生はわからない。

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というわけで、ニュータイプのハルキは今後も突っ走っていくだろうが、保守派のオールドタイプである私は、「時代が変わったようだな、坊やみたいなのがパイロットとはな」「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」とうそぶき続けるだろう。ええ、オールド文学の重力に魂を引かれた、地球人ですから。

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金重有邦、酒器のマジック。

グラスによってワインの味や香りが変わるという。それは身をもって体験済みだけれども、グラスの形状の「変わり方」はその程度が非常に甚だしいから、そりゃ味が変わるのも物理的にあり得るよな、と納得しやすい。ひるがえって日本酒の酒器。たとえばあの小さい杯に、同じことができるとは思わなかった。酒屋でオマケにもらうロゴ入りグラスと、リーデルのソムリエシリーズ、グラン・クリュ(通称金魚鉢!)との「落差」に等しい味の変化が、遙かに小さな杯の中でも起こるのである。

現在、日本橋の「壺中居」で開催中の、「金重有邦─下戸の酒器─」展。昨日がオープニングだったので伺ったのだが、16時からのオープニングパーティ時には、ほぼ半数の作品にお買い上げの赤いシールが貼られている。金重有邦(かねしげ・ゆうほう)さんは1950年、備前の窯元の子として生まれた。山野をめぐって土を探し、轆轤を操る技術を磨き、器に豊かな表情を与える工夫を窯に加え、備前の陶工たちが桃山時代に達した高みへ、素材、技法、自らの技術を追いつかせる努力を続けてきた職人だ。

「茶陶、茶碗という巨大な山脈にはひときわ高く聳える頂きが2つあります。その1つがコンセプチュアルアートとしての茶碗。これは樂家初代の長次郎が極めました。もうひとつの頂きが、高麗ものを筆頭とする食器としての茶碗。この最高所に位置するのが喜左衛門井戸であり、僕は食器としての茶碗の山にこそ憧れ、登ってきたのです」

先日、お目にかかって取材させていただいたとき、こんなふうにおっしゃっていた。そして茶碗の内側の造形によって、お茶の味がどのように変化するのか、ということを教えていただいた。その金重さんが作る酒器。同じように味が変わるのである。

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パーティは金重さんの杯をいくつも並べ、それで自由に日本酒を飲んでもらう、という趣向。料理は天現寺の日本料理「青草窠(せいそうか)」が担当している(料理の話は別の機会に)。

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たとえばこの2つ。右は絵唐津、左は備前。顔を見るなり、金重さんに「あなたは酒飲みだから、これ」といって絵唐津の杯を渡された。同じ「住吉」という日本酒を注いで飲み比べると、絵唐津の方は丸みがあってふくよかな味だが、備前ではシャープでドライ。2つの杯に入っているのが違う酒だと言われれば納得できるが……。

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もうひとつ刷毛目で試すと、すっかり別物のドライな酒になってしまった。

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なぜそんなことが起こるのか。知りたい方はぜひ器をお求めになった上で、追求してください。私もひとつ、備前(伊部)の杯を買った。金重さん曰く、「これが一番基本の杯で、ぶれのない、素直な味になる。その後で右に左に揺れる味の変化を楽しめばいいんじゃないかな」だそうだ。

金重有邦 −下戸の酒器展−

会期:平成21年10月13日(火)〜17日(土)
時間:午前10:00〜午後6:00
会場:壺中居3Fホール

東京都中央区日本橋 3-8-5
03-3271-1835

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僧職系男子。

連休中の某日、このような携帯メールが飛来した。

タイトル「汐満ちくれば」
本文「片男波、といえば? ここはどこでせう?」

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さて、おわかりになっただろうか。

まず「汐満ちくれば」。これは『万葉集』に収められた山部赤人の和歌「和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み芦辺をさして鶴鳴き渡る」の冒頭部分。ということは、送られてきた写真はその歌に歌われた和歌山県の名勝付近ということになるが、周辺の有力ポイントの双璧は玉津嶋神社と紀三井寺。写真に擬宝珠が写っていることから、紀三井寺から対岸の片男波周辺を見ている、という推測が成り立つ。

こういうお茶目な抜き打ち試験をなさるから、我が師匠(お稽古行けてませんが…)、千宗屋氏(武者小路千家15代家元後嗣)は油断ならないのである……。ちなみに千さんは茶人、美術史家であると同時に、天台宗、臨済宗の僧籍もお持ちの上、幼少期のアイドル=仏像というタイヘンに複雑精妙な知的バックグラウンドを有しておられる僧職系男子。それもあって2009年4月1日発売の『BRUTUS』仏像特集では、監修を務めていただいたのだが、茶の湯のまさに「トップシーズン」である10月の連休中に特別開扉へ足を運ばれるのだから、それはもういろいろと何本も超合金製の筋金が入っておられると感服した次第。

千さんが足を運ばれた紀三井寺では現在、11世紀の一木造り、十一面観音と千手観音のWご本尊を50年に一度の特別開扉中(共に重要文化財、10月10日〜20日まで、最終開扉は2010年3月1〜10日)。仏欲が湧いてしまった方は今すぐ和歌山へダッシュするか、来春3月の最終開扉をお待ち下さい。

photo/ So-oku Sen

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宝物庫の扉の前には・・・

梅酒が眠っている。

というわけで、もう少し三溪園取材こぼれネタを。『芸術新潮』の記事は、建築より展覧会の出品作寄りなのだが、撮影の際、広報・吉川さんの計らいで、宝物庫をちらっと拝見することができた。

建築は大正時代。とはいえ、コンクリート造で非常にしっかりしている。先日拝見した水戸徳川家の蔵とよく似た雰囲気で、収蔵庫本体は小さな木製の階段を上がった中二階部分にある。銀行の大金庫を思わせる金属製の分厚い扉には、三溪自身の揮毫になる「国華」の文字が! いやー、「普賢菩薩像」東京国立博物館蔵(国宝)も、「寝覚物語絵巻」大和文華館蔵(国宝)も、「高野切」個人蔵(国宝)も、「地獄草紙絵巻」奈良国立博物館(国宝)も、「浮線綾蒔絵螺鈿手箱」サントリー美術館蔵(国宝)も、全部この中に入っていたのかと思うと、
ひときわありがたみが増すよう(笑)。

しかし国華の文字より何より、我々取材班の目を惹いたのは、扉の手前に積み上げられた、梅酒と覚しきガラス瓶の山。明らかに自家製で中身はこってりとした黄金色に変じている。も、もしやこれは三溪在世中に漬けられた、国宝級の梅酒では!?

なわけがあるはずもなく、これは三渓園内の梅林で採れた梅の実を漬けたものだと吉川さん。ただ、場所柄たびたび燻蒸(!)されているので、ちょっとコワくて誰も飲まないんですよねえ、とのこと。5万坪以上の敷地があるのだから、なにもこんな場所に保管しなくても・・・。

敷地内の梅の活用法といえば、北野天満宮がお正月に縁起物として授与(有料)する「大福梅」が有名だが、三渓園もこれに倣って、「三渓園梅林梅酒」として売り出せば、名物になりそうだ。燻蒸さえかかっていなければ、ひと瓶抱えて帰りたいほど見事な浸かり具合だったのだが。

ちなみに宝物庫の扉の写真はこれまでほとんど雑誌等への掲載はなかったが、次号『芸術新潮』に掲載予定。梅酒の瓶は写っていませんが、どうぞお楽しみに。

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古建築ディスニーランド?

マイケル・ジャクソンはネバーランドを作り、ルートヴィヒ2世はノイシュヴァンシュタイン城を作った。で、本邦ニッポンは? 

自邸を建てる前に「部屋から三重塔なんか見えるといいかもね」で京都から室町時代の三重塔を移築してしまう、ビッグな数寄者がいたんです。それが仏殿、茶室、果ては紀州徳川家の夏の別荘まで、5万坪を超える敷地をしかるべく造成した上で日本建築史をおさらいできるほどの古建築を「蒐集」し、集めた日本美術コレクションを使って仙境の茶の湯の楽しんだ超ビッグスケールの茶人、原三溪。

10月31日〜11月30日まで、三渓園内・三溪記念館で開催される「原三溪と美術──蒐集家三溪の旧蔵品」展と、11月21日〜12月13日開催の「紅葉の古建築特別公開」に合わせて、『Casa BRUTUS』11月号(現在発売中)、『芸術新潮』11月号(10月25日発売)で記事を書かせていただいた。

しかし「西の桂離宮、東の三溪園」と並び称される名苑の割に、その名も存在も知られていないのが、ヒジョーにもったいない。

入場料500円(一般)で1日中のんびり遊べるわ、織田有楽斎の作と伝えられる茶室「春草廬」、初代徳川家康によって京都伏見城内に建てられたものと伝えられる「月華殿」、京都・灯明寺から三重塔と共に移築された室町時代(!)の本堂、いずれも重要文化財指定の建築が、茶会などに貸し出しも可能だわ(9〜17時/33,000〜15,000円)、それはもう、タイヘンな太っ腹ぶりなのである。

三溪という人は、自身の私的な住居として作った内苑はともかく、三重塔を遠望し、池に蓮の花の咲き乱れる外苑を、当初から「出入り自由の別天地」として市民に公開したという、イマドキの政界財界では絶滅寸前の「経世済民」マインドの持ち主だった。その死後、原家から建物ごと三渓園の寄贈を受け、亡き主の志に則って運営している横浜市(財団法人三溪園保勝会)もまた、天晴れ自治体の鑑、というわけである。

古建築はいずれもさまざまな見どころがあるけれども、「紅葉の古建築特別公開」の対象となっている「聴秋閣」はぜひ、ご覧いただきたい。残念ながら内部に上がって観覧することはできないのだが、江戸初期に小堀遠州と名声を分け合った建築家、佐久間将監(さくま・しょうげん)の設計になる2階建ての楼閣建築で、1階の一部を45度に落としているため屋根の変化が特徴的で、ディティールも非常に凝っている。

『Casa BRUTUS』の撮影を担当した写真家の久家靖秀さんは、聴秋閣を見るなり「アダムスキー型円盤!」と言って、爆笑。建物の背後、山道を少し上がると、遠くに三重塔、その手前に聴秋閣全景という、絶好のビューポイントがある。この場所に立つと「アダムスキー型円盤」という発言のリアリティも、おわかりいただけるはずだ。

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開設準備中。

間もなくブログ開始します。

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