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「内藤礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」展

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神奈川県立近代美術館で開催されている「内藤礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」展を見てきた。ジョルジュ・バタイユが『宗教の理論』に記した一節をタイトルとし、坂倉準三によるモダニズム建築の内外に新作インスタレーションを制作している。

第1展示室には10年(以上)ぶりに電球光を使った作品が、《地上はどんなところだったか》として復活。観客が一度に一人ずつその中へ歩いて入っていくことのできる展示ケースが2か所設けられ、作品と対話することができる。その場に身を置き、感覚を解放していくうちに、作品の細部を「発見」していくという構造は、ベネッセアートサイト直島の家プロジェクト「きんざ」によく似ている。

風を受けて中庭にひるがえるリボン、繰り返し登場するフラワープリントの布、水を満たしたガラス瓶──。新たな段階へ移行しつつある内藤の、新旧の作品と建築が呼応、交錯しながら、「地上における生」の全体性を回復することへの強く透明な希求を結晶させている。

〜1月24日まで
12月28日~ 1 月4 日、 1 月12 日
午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
一般 700円
神奈川県立近代美術館 鎌倉
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-53 
電話:0467-22-5000(代表)

内藤礼氏によるアーティストトーク
2010 年 1 月11 日(月曜/祝日)午後2時より  
神奈川県立近代美術館 鎌倉、予約不要、無料


小柳敦子氏(談)
西沢立衛さんとご一緒したのですが、あれを見て西沢さんはすごく自由を感じた、と。内藤さんはどちらかというと、緊張させたり、意識の深遠に導かれたり、観客にとって「自由」とは対極の位置にいる作家なのですが、風が自由に入る坂倉準三さんの建物がそうであるように、内藤さんも自由だと思った、とおっしゃっていました。

難しい言い方をするまでもなく、まず美術館とは何かということを考えさせられる展示です。そもそも「展示室1」「展示室2」という区別にどんな意味があるのか。坂倉(準三)さんは、1階は絵画、2回は彫刻、屋外は屋外彫刻と分けていきましたが、内藤さんはその「仕分け」を見事に裏切って、展示によって美術館の中も外も等価にしてしまっている。そこがすごく面白いし、坂倉さんが生きていらしたら、やはり面白がって下さったと思うのです。

そして風の道や光の道といった坂倉さんの設計意図を把握した上で、その意図を取り込んだ形で作品を設置している。天から降りてくるような中庭のリボンが踊るだけで、そこが風の通り道だとわかるんです。また池に面したテラスに垂らされた長いビーズに日が射すとビーズがきらきらと輝き、天井には水面に反射した光が映って、平面の世界と立体の世界が、調和している。それはもう、見事です。ぜひ天気のいい日に訪れてください。



 『美術手帖』2008年11月号「ARTIST INTERVIEW」より抜粋(インタビュー&構成:橋本麻里)

──これまでの内藤さんの作品には、ひとつの強力な方向性がありました。

内藤 自分でコントロールしきれないものを求めているのだと思います。横浜トリエンナーレに出展した〈無題(母型)〉なら、熱や水の対流によって発生する 動きがそうですし、2001年に完成した直島の家プロジェクト〈きんざ〉も、外界から完全に遮断された屋内で体験する作品ではなく、低い位置に開口部が あって、外の風景が感じられるようになっています。そこを誰が歩くとか、誰が立ち止まるとか、外にどんな作品があるかということは、私にはコントロールできませんよね。自分の理解の内側だけで制作しない、理解を超えたり、理解しきれないものをそのまま受け入れて「完成」する作品、そういう方向に向かっているような気がします。

──「私はいるのか」という疑問に捕らわれていた頃、内藤さんにとって他者はどのような存在だったのでしょう。

内藤 恐怖でした。1991年の佐賀町エキジビットスペースで発表した〈地上にひとつの場所を〉は、会場の内部にフランネルのテントを張っています。鑑賞者はやはりたった1人で、完全にコントロールされた空間の中に入って作品を鑑賞する。それが2002年、ライスギャラリーでの展示では、自然光を受け入れ、音や外の気配は感じられるけれども、作品の内部にいる鑑賞者からは外が見えない、完全にベールを剥ぎ取らないでほしい、というくらいの距離感になり、 東京都現代美術館の〈無題(母型)〉では、ついに外の動きが見えるようになった(笑)。何人で通り過ぎてもらってもいいし、何が見えてもいい。死者が振り 返って見たときの地上の風景、しかもそこに生きて在る人間を含む環境、生の全体を眺めたいということなんです。そうやって、たまたま自分が生まれた場所で 受け取ったもの、縛られているもののすべてに納得できたとき、地上における生が「祝福」となるのではないか。生命としての実感が薄いから、そんな風に「祝福」について考えるようになった気がします。

──内藤さん自身、生命であることについての実感が薄いのですか?

内藤 それこそが探しているものだと思います。作品を通してわずかに感じられる瞬間があるからやっていられるというか……。言語を使って考えることと、本 当に深く自分の全身で「わかった」と感じることとは、違いますよね。「外がある」「他人がいる」と初めて気づいた時と同じように、「自分が生命である」ことを感じたい。最近、動くものに興味を持っているのも、そこに「アニマ」、生命の本質があるからだと思っています。

──素材という言葉がふさわしいかどうかわかりませんが、言葉という素材の使い方も変わってきています。なぜかこれまで内藤作品について論じる書き手のほ とんどは男性で、しかもその多くが作家の「女性性」について言及してきました。これに対して、というべきか、内藤さん自身が作品のタイトルとして、〈母 型〉という言葉を選んでいますね。

内藤 その傾向については、私自身も不思議に思っています(笑)。どうも男性にとって、「母」は男性のために存在する対象であって、男性にしか「母」はい ない、と思っている節がある。でも女性だって細胞分裂で生まれてきたわけじゃなく、母はいますし、女性にとっての女性、という存在もある。それがなんなの かということを、まだ自分の言葉として解体したことがないから、説明するのは難しいんですが……。それに〈母型〉を一所懸命作るのも、私の中にそれがないからでしょう? 自分にないものだからこそ希求するわけだし、そこに男女の別は、本質的にはないはずです。それにもうタイトルなんか付けたくない、という 気持ちになってきているせいか、最近はポツポツと〈無題〉という作品が出てきています。本当のところ、〈地上にひとつの場所を〉も〈母型〉も、同じ意味だ と言ってしまっていい。それでも女性性に関わる問題は、自分から言わない限り気づいてもらえなさそうなので、〈母型〉という言葉で明示し始めたんです。

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