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「選ぶ」成熟。

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『椀一式』の書籍の話を書こうと思ったのだが、諸般の事情で後回しにした(でも近々)。その代わり本書に収録した原研哉さんと平松洋子さんの対談でも話題になった問題について少し。

自分自身も含め、幸田露伴−幸田文的家政術によって支えられてきた「日本人の暮らし」は既に存亡の危機に瀕している。むろんそこまで遡らなくても、コンビニ&レンチン食品が全盛を極め、切り身の魚が海を泳いでいると考える小学生が少なからず存在し、衣食住ほぼすべての領域の「暮らし」の内実をアウトソーシング(あるいは放棄)しても、身ひとつでも生きていけてしまう現代日本には、「漆を投げ込み、生かしていく生態系として、日本人の家、暮らしというものはもう成立していないんじゃないか」という問題がある。

暮らしの生態系。

確かに100円ショップとコンビニとユニクロで成り立っている生活の中からは、漆器に対する希求は生まれてこないだろう。

ところがそこで平松さんがこんなことをおしゃっている。

いくら漆が丈夫だといっても、使ったらすぐ洗って、拭いて、十分乾燥させてからしまう、という程度の手間はかかります。その一連の作業は負担と思えば負担かもしれません。でも生活というのは連続しているものだから。食べたら洗って、拭いて、しまって、という行為が既に、「暮らし」そのもの。

だから見方を変えれば、漆は陳腐な暮らしの中にいいリズムを作ってくれる、生活を躾けてくれる存在だと言うこともできる。それに「漆を使ってみようかな」という欲望が生まれるときって、漆そのものだけではなく、手間や時間がかかるかもしれないものの中に、平素の生活を変えてくれる、潤わせてくれるきっかけがあるかもしれないという直観が働いているような気がします。 
 
『椀一式』より

まともな工程で作られた漆器の値段は、絶対的な金額として決して小さくはない。誰にとっても必要なものだとも思わない。しかしその漆器を30年、50年と手入れしながら使いこなし、ものとして育てていく「暮らし」を、自分が是とするか否とするか、そういう判断も含めて自らの暮らしの「生態系」を構築していけることが、「成熟」ではないかと思うのだ。

安いからいい、安いほどいい、という価値観は当然ありだけれども、「安いほどいい」を「選ぶ」のではなく、思考停止してそちらへ雪崩を打つ、という幼稚な振る舞いの中で失われるものの大きさを考えると、暗然とする。

自分はといえば、「生態系」の砂漠化防止に漆器を導入してからずいぶん経つ。愛用しているのは、亡くなる少し前に清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入した角偉三郎さんの器。

 

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角偉三郎 合鹿椀



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角偉三郎 ボウル   東京国立博物館に収蔵されている奈良時代の応量器(時代的にそう呼ぶべきではないけれども)を思わせるかたち。

ちなみに合鹿椀はそれこそ毎日、「カレーからヨーグルトまで」の食卓で使い倒しているもの。ボウルの出番はそれに比べれば10分の1以下だ。ご覧のとおり、ほんの数年しか経過していないものの、艶がまったく違う。「漆は使えば使うほど」を、はからずも見事に立証している。

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コメント

初めまして。
Twitterの方からこちらに来ました。
それより前から、実は和楽等で記事は拝見していたことになるのですが。

祖母が鎌倉彫を少したしなんでいたので、漆器は大好きです。
清拭きして二度手間をかけるように言われて育ちました。
柔らかい当たりは食器を手に持って食事をする習慣にも合っていますよね。

根来など手に入れられたらと思いますが、ちょっと分不相応かな。

Twitterのつぶやきもブログも楽しみにしています!

投稿: 仙台通信 | 2010年1月 2日 (土) 01時14分

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