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市井の山居 細川護煕展

Hosokawa

フクヘン氏が報告しているとおり、現在パリ三越で陶芸展を開催中の細川護煕氏。日本ではメゾンエルメスで自身が筆を執った油彩画の展覧会が、また東京国立博物館では細川家に伝わる書画、陶磁、武具などを紹介する「細川家の至宝−珠玉の永青文庫コレクション−」展が、それぞれほぼ同時期に開催され、「春の細川祭り」の様相を呈しているのである。

メゾンエルメス8階フォーラム
「市井の山居」細川護煕展
4月22日〜7月19日、月〜土曜:11〜20時、日曜:11〜19時
会期中無休(5月19日を除く)、入場無料
中央区銀座5-4-1、03-3569-3300

細川さんとは永青文庫の所蔵品を紹介する『和樂』での連載を担当して以来のおつきあい(その前に一度、『BRUTUS』で取材したこともあるが)。湯河原と軽井沢で制作されている陶芸については、何度も取材しているし、京都(古美術柳)と東京(壺中居)で開催される個展にも毎回伺っている。書もここ数年数多く書いていたし、他に水墨、漆芸、茶杓などを作られることも聞いていたが、油彩画を描いているという話を伺ったときにはさすがに驚いた。

「陶芸もそろそろ飽きてきたかも」という細川氏が油彩画を描き始めたのは、この1年ほどのこと。半年ほど経った時点で、「実はもう50枚くらい描いているんだけど…」と告白(笑)された。どんなモチーフがいいのか、方向性は、など、その時点ではまだずいぶん迷っていたようだ。が、描きたい意欲は満々。聞けばタテヨコ3メートルはある大作も描いているという。ついては個展をやってみたいのだが、というお話をうけ、紆余曲折の末、このエルメスでの展覧会が実現したというわけだ。

とはいえ、細川さんと洋画はまんざらご縁がないわけでもない。祖父・細川護立侯爵は病弱だった若い頃から絵に親しみ、白樺派の学友の影響を受けて近代絵画に傾倒。世間の評価のいまだ定まらない頃の横山大観や下村観山を見出した。

その細川家と日本近代洋画との関係について、『和樂』での細川さんへのインタビュー記事を引用してみよう。

──護立侯はいつ頃から、どんな契機で近代絵画の収集を始めたのでしょう。

 以前にお話ししたように、若い頃は病弱でしたから、安静な生活を進められ、絵画に慰められる時間が長かったようです。その頃、学習院の 同輩で特に親しかったのが、志賀直哉さん、武者小路実篤さん、有島(武郎・生馬)兄弟、児島喜久雄さんたちです。彼らの間にはヨーロッパの印象派のような 新しい絵画や文学に憧れる風潮が非常に強くあって、絵の写真を入手すると、その都度仲間が集まり、歓声を上げて見入っていたといいます。近代絵画への美意 識という意味では、彼らから受けた影響は少なくないでしょう。

実際に購入するようになったのは、20歳頃からのようです。祖父が水戸に住む知人 を訪ねた帰り、ちょうど天心に従って東京美術学校を辞め、茨城県の五浦で極貧の研究生活を送っていた頃の大観、春草、観山、武山がやっていた、展覧会に通 りかかったのだそうです。何気なく会場に立ち寄った祖父が、持っていた小遣いから1人1幅ずつ購入したのが、自分で買った初めての絵画作品だったようです が、当時の金で1幅30円という代金が、非常に高かったと、のちに書いています。この時の展覧会で は結局祖父以外に買い手はつかず、ただ1人買っていったあの若造は誰なんだと、4人の間でもずいぶん話したようです。

 この時に買った大観の作品は、杉木立に時鳥が飛んでいるさまを描いた、小さな絵でした。あらたまって描いたというのではなく、興に乗じ てさらっと描いたような、静かな絵でした。祖父は大観の絵をずいぶんたくさん集めましたけれども、始めて買ったこの作品はのちのちまで特に気に入っていま した。

──ただ絵を買うばかりでなく、画家たちと親しくつきあっていらしたようですね。

 大観と観山は互いに東京美術学校の第一期生で、天心と共に五浦へ移住した同志ではありますけれども、先に名前が売れ出したのは観山の方 だったので、大観の方で離れていた時期があったようです。ある酒席で彼ら2人と一緒になった祖父が、彼らに向かって「最近君たちは仲が良くないそうじゃな いか」と尋ねると、「いや、そんなことはありません」と言って、大観が観山を転がすなど、ふざけてあって見せました。

「じゃあ、2人合作で絵を描いてくれ」という祖父の注文にはずいぶん渋ったそうですが、結局話し合って描いたのが『寒山拾得』でした。観 山が寒山を、大観は拾得を描き、2人で1幅という非常に珍しい作品を仕上げています。また、大勢を引き連れて別荘へ行ったり、彼らの住まいを訪ねたりとい うことは、頻繁にありましたし、やりとりした膨大な書簡が残っています。大観は池之端に、大磯に安田靫彦、大森馬込に小林古径、それぞれ住んでいた作家た ちとは日中戦争前後から行き来することが増えました。

 大観を始め、梅原龍三郎、平福百穂、安井曾太郎らを赤倉の別荘に招いたとき、温泉に浸かるくらいしかやることもありませんから、彼らに 手拭いの下絵を描けといって困らせたようです(笑)。平福さんなどは考えた挙げ句、庭から枯れ葉を拾ってきて、それを描いたと言います。

またこの赤倉の別荘には、食堂から居間に続く場所に大きな杉戸が2枚ありました。ある年、ここに大観がフクロウを描いたのを機に、田中一 村や中村岳陵ら、大観に連なる画家たちが別荘に立ち寄ると、必ず1羽、新しい鳥を描き足すようになったのです。ただ、この杉戸の前には大きなテーブルが置 いてあって、そこで私たち子供はピンポンをやっていました。ゲームに熱中すると、勢い余って杉戸に体当たりすることもしょっちゅうでしたが、いま考えると ゾッとする話です(笑)。毎年9月1日から始まる院展には、夏中滞在している軽井沢の別荘から、上野へ駆けつけて、必ず見ていました。大正12年も院展を観に上京していたため、関東大震災に東京で罹災しています。

──細川さんご自身は彼らと交流はあったのですか?

 中学生くらいの頃、祖父に連れられて、何度か池之端にあった大観邸に伺ったことがあります。いかにも国士的な風貌というのか、宮本武蔵 の肖像画のような雰囲気の方でした。酒豪で知られているように、午前中にお訪ねしても、酒臭い(笑)。ほかにも、湯河原にあった安井曾太郎さんの別荘にお 邪魔したり、梅原龍三郎さんと一緒に富士山のスケッチに行ったりしています。

──最初は刀剣から始まり、禅画、東洋陶磁、そして近代絵画へ。護立侯のコレクションの間口の広さは驚異的です。

一方で祖父は、同時代の松永耳庵や原三渓などと違い、茶陶、茶道具とは距離をおいていました。それは、これまでの日本美術を見る目、その 収集が、ほとんど茶に元を発しているため、世界の美術に対して普遍的な態度を取ることが出来ないから。だから自分は茶から距離をおくのだ、と書いていま す。もう少し美術全体を、俯瞰的に観たいという思いがあったのでしょう。日本の画家の作品だけでなく、セザンヌやルノワールも持っています。
(細川護煕氏談)


 

うーむ。すごい。さすが細川家(笑)。梅原龍三郎にスケッチ指導を受けた現存画家は、そうはいないだろう。そんな次第で、下地は既に十分お持ちというわけ。絵画展はすでにドイツでの開催も決まっていると聞く。60歳での政界引退を機に始めた陶芸を10年でものにした「凝り性」が、今後どんな絵を細川さんに描かせるのか。晴耕雨読の70代、恐るべし。

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