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2010年9月

編集ワークショップ補完計画(2)

昨日に続いて、SPBSの編集ワークショップで話したことの「補講」を。

Twitterでも書いた「話し言葉と書き言葉のあいだ」について。

ライターが作る原稿にはさまざまな種類がある。三人称を使った客観的な記事、インタビューをまとめた記事、対談や座談会……。必要とされる技術はそれぞれだが、取材対象の一人称によるインタビュー記事や対談をまとめる際に意識しているのは、話し言葉と書き言葉の中間を狙う、ということ。

時に取材を受ける条件として、「橋本麻里が書くこと」を提示して下さる方がいる。あるいは編集者の方から、「○○さんの取材なので、橋本さんにお願いしたい」という依頼をいただくこともある。そこまで信頼していただけるのは、ライター冥利に尽きるというものだが、これは取材対象と私が個人的に親密だという理由からではない。

何人かの方には、校正時にほとんど訂正をもらうことがない。そうなるように書いているつもりだが、実際「直しなし」というご連絡をいただくのは嬉しいものだ。では「そうなるように書く」とはどういうことか。

自身も文章を書く取材対象の場合、「これが自分らしいテキスト」という自認は、当然自ら筆を執った(キーボードを叩いた)文章になる。取材時に話した言葉ももちろん、その人のものだが、当然微細な言い間違いや誤認、話し足りない部分、説明しきれない背景がある。それを無視して話したままの言葉をダイレクトにテキスト化した場合、取材対象は「これは〈自分らしいテキスト〉ではない」、という違和感を抱く。その違和感の感じどころも、内容から些細な表現まで、レイヤーは複数ある。

たとえば、自ら書くテキストでは絶対に採用しない一人称(私、ではなく、僕/俺、だとか)が使われている、などは、些細だけれど深刻な違和感を抱かせる。

そういった、インタビューの「行間」を埋めていくために、取材対象の著作を把握することが必要になるのだ。

どんな言い回しを好むのか? 文末の処理は? よく引用するエピソードは? 学問的なバックグラウンドは? …挙げていけばきりがないが、いちいち確認しながら読むわけではなく、読んでいるうちに頭に入ってくる情報を抽斗にしまっておき、原稿を作りながら、「取材時には言及しなかったけれど、この話をしたとき念頭においているのは、あのエピソードだ」とか、「前提になっているのは、前著のこの部分だ」とか、抽斗からパズルのピースを取り出してきて、インタビューの「行間」を埋めるわけだ。

もちろん、インタビューの際に取材対象が新たに発見したアイディアや、本人も予想外の展開になった論旨などは(書いたものを読んでいれば、それが旧聞に属するものか、いま思いついたアイディアかは判断できる)、最大限収録するべきだろう。

そうして、内容的にも表現としても、書き言葉(取材対象によって書かれたテキスト)と、話し言葉(取材時に語られた言葉)の真ん中を射抜いた記事は、大きな訂正をもらうことはない。

このような「実績」を積み重ねていくうちに、公私ともに接する機会が増え、ナマの言葉を聞く頻度やボリュームが増えていく相手については、「書き言葉と話し言葉のあいだ」の「真ん中」の見切りがより精密になっていく。結果として訂正はどんどん減っていき、「直しなし」に至るというわけだ。

ちなみに今のところ、杉本博司さんや内田樹さん、茂木健一郎さん、千宗屋さん、原研哉さん、山下裕二さんなどが、私がもっとも高精度に「書き言葉と話し言葉のあいだ」を撃ち抜ける対象です。

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編集ワークショップ補完計画(1)

9月26日、SPBSでの編集ワークショップに、ゲスト講師としてお招きいただいた。

編集者であれライターであれ、基本的には「ギャラをもらって仕事する」以上に切実なトレーニングはないと思っているのだが(お金は「払う」より「もらう」方が、遙かに巨大な圧力や自覚として能力の向上に作用する)、一部の技術については伝えられることもあるので、お引き受けした次第。

そこでお話ししたことのひとつが「依頼状の書き方」である。仕事柄、依頼状をいただく機会は少なからずあり、依頼状を書く機会は倍して多い。実は雑誌の記事の執筆においては、ベストな依頼状が書けたら、その仕事は半分クリアしたも同然なのだ。

ただし「みんなが知ってそうな有名人」のリストを作って上から順に依頼状を送りつけていき、運良く引き受けてくれた人に取材するような記事の場合には、以下の内容は一切当てはまらないので、ご注意を。

ある媒体の、ひとつの特集の中に配置される複数の記事には、それぞれ担うべき明確な役割がある。そして媒体の特徴、特集の内容、個々の記事が担う役割を理解していれば、取材対象は自ずと絞られてくる。「この人しかいない」という対象が思い浮かばない場合、媒体〜特集〜記事の内容を把握し損ねているか、ふさわしい取材対象について無知であるか、どちらかだろう。

「この人しかいない」というドンズバの対象に思い至ることができれば、依頼状は自ずと、「なぜ今、この媒体がこの特集を作り、またその記事の取材対象があなたでなければならないか」を、情理を尽くして説明するものになるはずである。

「あなたでなければ」の説明として、取材対象の仕事内容や興味関心について言及し、この記事が取材対象のアイデンティティの核心に触れるものであると立証することが、最強の説得材料となる。

依頼者が、取材対象について、どれほど本質的な理解を有しているか。理解しているからこそ依頼しているのだと、その理路を相手が納得すれば、よほどスケジュールが合わないとか、謝礼が非常識に安いとかいう理由でない限り、引き受けてくれるはずだ。

なぜなら(ほぼ)誰でも、どんな成功者でも、「自分とその仕事の意義は完全には理解されていない、正当な評価を受けていない」と感じているから。「理解や承認への欲望」が満たされることは、誰にとっても最大の「報酬」となり得る。空疎な賞賛の言葉や無駄な熱意の大盤振る舞いは、一文の役にも立たない。

自分が引き受けた仕事や掲載媒体についてそれだけ理解し、取材対象についても理解していれば、最終的な原稿も自ずといいものに仕上がるに決まっている。

ベストな依頼状を書く、というのは、そういう意味のことなのです。

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