「自分探し」の処方箋
自分探しについては、敬愛する橋本治さんと内田樹さんが言い尽くしているので、その引用を。
「クロートというのは『技術』によって成り立っていて、その『技術』とは仮面のようなものである。
(…)クロートというのものは、自分の技術で『自分』を覆い隠してしまう。だから、クロートには『自分』がない。有能な技術者が家に帰ったら『無能なお父さん』になってしまうことがあるのもそのためで、有能なクロートの専業主婦が、ときどき『私の人生ってなんだったの?』と悩んでしまうのもそのためである。
しかし、それでいいのである。クロートにとって『自分』とは、『自分の技術』という樹木を育てる土壌のようなもので、土壌はそれ自体『自分』ではないのである。一本の樹木しかないことが寂しかったら、その土壌からもう一本の樹木を育てればいいのである。それを可能にするのが『自分』という土壌で、土壌は、そこから芽を出して枝を広げる樹木ではないのである。だから、クロートは技術しか問題にしない。クロートの自己表現は技術の上に現れるもので、技術として昇華されない自己は、余分なものでしかないものである。(…)
ところがしかし、シロートは技術を持っていない。技術を持っていないからこそシロートで、そのシロートは『自分』を覆い隠すことが出来ない。すぐに『自分』を露呈させてしまう。ただ露呈させるだけではなく、露呈させた自分を問題にしてしまう。『自分とはなんだ?』などと。
クロートはもちろん『自分とはなんだ?』なんてことを考えない。それは、シロートだけが考える。クロートは、考えるのなら、『自分の技とはなんだ?』と考える。『自分のやってきたことはなんだ?』という悩み方をする。クロートが『自分とはなんだ?』と考えてしまうのは、自分を成り立たせて来た技術そのものが無意味になってしまった廃業の瀬戸際だけで、そんな疑問が浮かんだら、時としてクロートはそれだけで自殺してしまう。」(橋本治『ああでもなく、こうでもなく3 「日本がかわってゆく」の巻』、マドラ出版、』2002年、347-8頁)
そして内田センセイは──。
「自己」というのは橋本先生が言うとおり「土壌」のようなものである。
あるいは「繁殖能力」(fécondité)といってもいい。
そこ「から」かたちあるものが出てくるのであって、それ自体は「エネルギー」や「トラウマ」と同じく、ある種の「仮説」であって、「はい、これ」と言って取り出せるようなものではない。
「そこから出てきたもの」を見てはじめて事後的に「こういうことができる素地」というかたちで「自己」は認証される。
でも「素地」というくらいだから、どんなものだかよくわからない。
定量的に語ることはたぶん誰にもできない。そこから生えてきた樹木のクオリティを見て、土壌としての生産性や通気性や保水力を推し測ることができるだけである。
「この会社では自己実現できない」という言明を発した人の場合、「そういう会社をみずから選択して、そこで『無駄な日々』を便々と過ごしてきた自分」というのが、とりあえずはそのひとの「樹木」である。そして、そのようなものしか育てることができなかった「土壌」がそのひとの「自己」である。
人間はその意味では、そのつど「すでに自己実現してしまっている」のである。
もし、そこで実現したものがあまりぱっとしないと思えるなら、樹木が生え来た当の足下にある「土壌」の肥沃化のためのプログラムをこそ考慮すべきだろう。
「土壌の肥沃化」なんていうと、すぐにあわてものは「化学肥料」や「除草剤」の大量投与のようなショートカットを思いつくだろうけれど、そういうのがいちばん土壌を痛めつけるのである。
土壌を豊かにするための方法はひとつしかない。
それは「繰り返し」である。
若い人にはわかりにくいだろうけれど、ルーティンをきちきちとこなしてゆくことでしか「土壌を練る」ことはできない。
土壌肥沃化に特効薬や即効性の手段はない。
土壌そのものが繁殖力を拡大再生産するようにするためには、一見すると「退屈な日常」としか見えないようなルーティンの繰り返ししかないのである。
その忍耐づよい労働をつうじて土壌の成分のひとつひとつがやがてゆっくり粒立ち、輝いてくる。
「練る」というのは、そういうことである。
「技術」というのは、千日万日の「錬磨」を通じてしか身に付かない。
ハウツー本を読んでたちまち身に付くような「技術」は三日で剥がれるし、バリ島やニューヨークに行ったり、転職するだけで出会えるような「ほんとうの私」からはたぶん何も生えてこない。
ブログ「内田樹の研究室」より
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