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中尊寺──黄金花咲く東北

 

 飢饉、長く暗い冬、出稼ぎ……。多少薄れてきたとはいえ、東北地方に対するネガティブなイメージは、平安時代から繰り返し上書きされてきた、強固で抜きがたい偏見として凝っている。低く柔らかな山稜に囲まれた盆地の内側を「世界の中心」と信じて疑わない貴族たちにとって、逢坂の関(滋賀県)から先は「外の世界」であり、菅原孝標女が『更級日記』に書いたとおり、上総(千葉県)は「あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方」であった。ましてや白河の関を越えた道の奥、「みちのく」はといえば、まつろわぬ者が跋扈する異界、いわば「ディープ・イースト」にあたる。そこに住む者も未開の蛮族としての「夷」、あるいは朝廷の領土拡大による捕虜、被征服民を意味する「俘囚」と呼ばれ、身分制度の下位に置かれていた。宮廷の貴族たちにとって、都に居所をなくした者、地位も世間体も捨てた者がさすらう辺境の地、それが「みちのく」だったのだ。

 しかしひとたび京都から視座を動かせば、そこは「奥」でも「外」でもない。平泉に居を構えた藤原三代の政権が、「天皇の御代栄えむと東なるみちのくの山に金花咲く」と大伴家持も歌った莫大な黄金の生み出す富を背景に、「三津七湊」すなわち日本の十大港湾として指を屈された津軽十三湊を通じて朝鮮半島や中国との交易を行い、疲弊した公家政権とは異なる、武士による清新な政治、行政システムを鎌倉幕府に先がけて確立した「先進国」でさえあったのだ。

 胆沢、江刺、和賀、紫波、稗貫、岩手の6郡を総称した「奥六郡」、現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域が、大和朝廷の勢力圏の北端、すなわち陸奥の国と呼ばれる。朝廷の領土ではあるものの、実際の統治は地元の豪族に「陸奥守」の地位を与えて委任するか、中央から派遣された鎮守府将軍を地元の豪族がサポートするという形をとった。当初この地を任されていたのは、土着の豪族で、蝦夷であったとも伝えられる安倍氏である。奥六郡に巨大な経済力と軍事力を誇った安倍氏は前九年の役(1051~1062)で滅亡するが、後三年の役(1083~1087)を経て、陸奥は安倍氏の惣領だった安倍頼時の孫であり、藤原摂関家の末流を名乗る藤原清衡(1056~1128)の支配下に入る。この清衡に始まって、基衡(生年不詳~1157?)、秀衡(1122~1187)と続く三代の藤原家が築き上げたのが、中尊寺をはじめとする平泉の黄金文化であった。

 安倍氏がその境を越えて南下することを禁じられ、源氏がその関を破って東進することを悲願とした、衣川の関。数多の血が流された関を拓いて建設されたのが、中尊寺、毛越寺、そして政治の府である平泉館だ。伽藍の内外、屋根まで黄金で荘厳した「皆金色」の金色堂。高さ5丈(約15m)の堂内に、高さ3丈(約9m)の阿弥陀仏坐像を中心に、左右に8体の丈六阿弥陀仏坐像(約4.6m)が安置された、平安時代最大の阿弥陀堂といわれる二階大堂。これらの堂塔、伽藍が40余、そして300を超える僧坊がひしめく中尊寺は、蝦夷よ俘囚よと踏みにじられてきた陸奥の誇りを、いかばかりか輝かせたことであろう。

それは決して栄耀栄華を顕示してのものではない。陸奥に流されたあまりにも多くの血を悼み、清衡自ら「中尊寺供養願文」に挿入した「官軍夷慮の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠を受くるもの、過視無量なり(中略)鐘声の地を動かす毎に、冤霊をして浄刹に導かしめん(官軍賊軍の区別なく、さらには人間だけでなく獣や鳥や魚介類さえも、梵鐘が大地を動かして響くごとに、故なくして命を落とした人々の魂を浄土に導かれんことを)」という美しい鎮魂の言葉に示されている通り、夥しい死者の霊を慰め、再び兵火に蹂躙されることのない仏国土を作るべし、という願いのゆえなのだ。

 都をすらしのぐ壮麗な伽藍を建て、知の宝庫たる僧侶を養い、畿内5国を上回る田地を持ち、輸送や軍役に欠かせない駿馬を産し、優れた刀剣を鍛え、貿易港に恵まれ、莫大な黄金を独占し、自らは奪うことも滅ぼすこともしなかった陸奥。それは平氏を倒し、貴族から実権を奪い取って登極しつつあった源頼朝にとって、唯一にして最大の「スーパーパワー」だった。並び立つ途はなしと見た頼朝によって1189年、陸奥は征服されるが、頼朝は町にも寺にも敬意を払い、破壊を及ぼすことはなかったという。900年近い時の流れの中に多くの伽藍が失われ、いまや金色堂、浄土庭園といった、本当にわずかな痕跡が残されているに過ぎない。しかしすべての営為が、そして黄金の輝きが土に還ったとしても、祈りは永遠に陸奥の地を潤し続けている。


『婦人画報』で連載したシリーズ「美の聖地」より

 日本は古く、日本列島の歴史はさらに時を遡る。南北に約3500キロメートル、小さなものまで含めれば3700を 超えるという島々の連なる花綵のごとき列島が、ひとつの美意識のもとに統一された「集権国家」だったことなど、その歴史の初めから一度としてなかった。世 俗の権力と聖なる権威、そして猥雑な経済力の在処はめまぐるしく入れ替わり、そこで育まれる美もまた、驚くほど多様な相を得た。浄いもの、卑俗なもの、単 純なもの、複雑なもの、穏やかなもの、激しいもの、洗練されたもの、粗野なもの──。ひとつの言葉で括ることの到底できないそれらは皆すべて、「日本の 美」だ。私たちが未だに知らないのは「本当の」「唯一の」日本の美ではない。あまりにも多様で、振幅の激しい、それゆえに豊かな、美の諸相なのである。

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