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2011年12月

津波と神社(2)

熊谷航氏(海洋プランニング株式会社)による発表
「東日本大震災の津波による被災状況と津波から残った神社に学ぶ」

熊谷氏は環境アセスメントなどの調査を請け負う海洋プランニング所属。3月11日当日は北上川河口で潜水作業を伴う測定機材の確認を行っており(国土交通省からの業務委託)、撤収時に震災に遭った。お住まいが福島県にあり、震災発生の翌日から、精力的に被害の調査をされている。その過程で、津波による浸水地域の境界に多くの神社を目にしたことが、TBS「報道特集」での番組企画に結びついた。


(1)各地の被災状況
福島県南相馬市、相馬市、宮城県石巻市大川、雄勝、女川、南三陸町、陸前高田市、釜石市、宮古市など沿岸各地の津波被災状況を写真と共に紹介。
 東北一円の海底が津波時の乱流でえぐられ海底地形そのものが変わってしまっている、干拓地や干潟が海に戻ってしまっている、火力発電所に停泊していた石炭船や重油のタンカーが座礁し、原発以外の発電所の復興も当分困難、被害を蒙った多くの中小港湾を仮に復興したとして、漁業離れが進む中、港湾の維持費を注ぎ込み続けることに意味があるのか、と熊谷氏。
 また台風や津波で疲弊した漁場(海底)がリフレッシュされると、3〜5年後に大漁期がやってくるため、高所移転した住民が海岸近くの住居に戻ってしまう、というサイクルが繰り返されてきた、とも。

東日本大震災の津波被災についてのまとめ
●防波堤などの防災施設が十分に機能しなかった 
●防災施設そのものが破壊された 
●干拓地など標高が低い危険な地域に生活圏があった


(2)神社は残った
こうした被災地調査の過程で、海側から陸を見ると必ず神社が見える。神社が建つ地盤ギリギリまで浸水しているが、社殿への被害が軽微であるか、まったくないケースが非常に多い。


【福島県相馬市・南相馬市での事例】

■津波の浸水線と神社の関係(TBS報道特集より、以降クリックで写真拡大)
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南相馬市市原町地区上渋佐 照崎神社
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相馬市市原釜 津(つのみつ)神社
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赤は全壊・流出、黄色は半壊、青は顕著な被災なし



■神社が残る必然性──等高線との関係

神社が残る必然性──等高線との関係(相馬市市松川浦周辺)
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神社が残る必然性──等高線との関係(南相馬市市原町区)
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神社が残る必然性──等高線との関係(南相馬市鹿島区)
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●標高の低い場所に不規則に点在→流出した神社が多い(福島県で流出・全壊した神社10社のうち8社がこの地区にあった)
●流出したのはほとんどが比較的新しい神社(資料:『奥相志』『鹿島町史』)


■神社が残る必然性──鎮守の森効果
森が水勢を弱め、(建物を破壊する)瓦礫などの侵入を妨げた
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■神社は合理的な防災・減災ラインを示すランドマーク

古くからある神社は
 平地では海岸から十分離れた安全な標高の地点に立地している。
 海岸近くでは、傾斜の変換点上など津波の進入しづらい場所に立地している。
  →干拓される前の自然条件が反映されている?
 鎮守の森が神社本体の破壊を防いでいる。
 周辺にある屋敷林などで、水勢が減殺されている

結果として神社の背後では津波による被災が極端に軽く済んだ


■神社の存在を復興にどう取り込めるのか
(工事中)

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■加藤健司氏(宗教人類学)の考察
村落書き上げを調査すれば、該当地域の神社の成立過程や時代がある程度わかるのではないか。『封内風土記』などのような資料が参考になると思うが、仙台藩では大規模干拓が行われ、60万石から220万石まで増産した。その過程であらたな干拓地への移住が行われ、元の集落の本社から新集落への分社もあったはず。

まず移住、条件のよい場所へ分社の設置が行われ、その後干拓の進展によって海岸線が後退、集落は前進していく。そして現在、当初の集落の位置と等高線を反映した場所に神社が残っており、相対的に標高が高く、海から距離があったことで、結果的に津波を免れやすかったのではないか。

※『封内風土記』1772年、仙台藩が編纂した地誌。

参考:宮城県神社被災マップ
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赤印は津波による被災神社
青印は津波被害地より200m以内に鎮座する神社


動画:TBS報道特集「特集:いにしえからの警告 神社の前で津波が止まる?」

番組視聴後のツイートまとめ
Togetter:神社の立地の歴史的な意味と津波について

■橋本による補足
 創建を10世紀まで遡れる式内社に関しては、貞観地震の記憶から津波による浸水地域を避けて建設/移転された可能性が考えられる(ただし現在までに移転を重ねている可能性も当然ある)。
 福島県相馬市〜南相馬市沿岸の神社については、加藤先生のご指摘の通り、近世以降の立地ではないか。以下、近世の干拓事業に関わる資料をいくつか探してみたが、こうした事業に伴う集落の移転や分社の設置を、文書などから検証していくことで、相馬市〜南相馬市沿岸の神社の来歴はある程度明らかにできるだろう。また神社と津波(1)で言及した慶長地震津波との関連も検討課題となるはずだ。

参考資料:
治水事業に関する景観地の回廊(南相馬市)~治水・干拓事業に係わる歴史を尋ねる~
江戸時代後期〜20世紀初め、殖産興業・食料増産が推進される中、浦を水田に変える事業が南相馬市沿岸で行われていることがわかる。江戸後期、天明・天保の飢饉の後に実施された「御仕法」で、荒れ地の開墾、堤・用水堀・掛入堀などの新築・修理が積極的に行われた。また鹿島区(旧相馬郡八沢村)八沢浦の干拓事業を筆頭に、明治以降も大規模な干拓事業が実施されている。

相馬の歴史「御仕法」

南相馬市浦尻貝塚史跡公園整備基本構想(PDF)
南相馬市沿岸の、縄文時代からの海岸線の変遷や貝塚の分布などがわかる。

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