工芸未来派
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飢饉、長く暗い冬、出稼ぎ……。多少薄れてきたとはいえ、東北地方に対するネガティブなイメージは、平安時代から繰り返し上書きされてきた、強固で抜きがたい偏見として凝っている。低く柔らかな山稜に囲まれた盆地の内側を「世界の中心」と信じて疑わない貴族たちにとって、逢坂の関(滋賀県)から先は「外の世界」であり、菅原孝標女が『更級日記』に書いたとおり、上総(千葉県)は「あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方」であった。ましてや白河の関を越えた道の奥、「みちのく」はといえば、まつろわぬ者が跋扈する異界、いわば「ディープ・イースト」にあたる。そこに住む者も未開の蛮族としての「夷」、あるいは朝廷の領土拡大による捕虜、被征服民を意味する「俘囚」と呼ばれ、身分制度の下位に置かれていた。宮廷の貴族たちにとって、都に居所をなくした者、地位も世間体も捨てた者がさすらう辺境の地、それが「みちのく」だったのだ。
しかしひとたび京都から視座を動かせば、そこは「奥」でも「外」でもない。平泉に居を構えた藤原三代の政権が、「天皇の御代栄えむと東なるみちのくの山に金花咲く」と大伴家持も歌った莫大な黄金の生み出す富を背景に、「三津七湊」すなわち日本の十大港湾として指を屈された津軽十三湊を通じて朝鮮半島や中国との交易を行い、疲弊した公家政権とは異なる、武士による清新な政治、行政システムを鎌倉幕府に先がけて確立した「先進国」でさえあったのだ。
胆沢、江刺、和賀、紫波、稗貫、岩手の6郡を総称した「奥六郡」、現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域が、大和朝廷の勢力圏の北端、すなわち陸奥の国と呼ばれる。朝廷の領土ではあるものの、実際の統治は地元の豪族に「陸奥守」の地位を与えて委任するか、中央から派遣された鎮守府将軍を地元の豪族がサポートするという形をとった。当初この地を任されていたのは、土着の豪族で、蝦夷であったとも伝えられる安倍氏である。奥六郡に巨大な経済力と軍事力を誇った安倍氏は前九年の役(1051~1062)で滅亡するが、後三年の役(1083~1087)を経て、陸奥は安倍氏の惣領だった安倍頼時の孫であり、藤原摂関家の末流を名乗る藤原清衡(1056~1128)の支配下に入る。この清衡に始まって、基衡(生年不詳~1157?)、秀衡(1122~1187)と続く三代の藤原家が築き上げたのが、中尊寺をはじめとする平泉の黄金文化であった。
安倍氏がその境を越えて南下することを禁じられ、源氏がその関を破って東進することを悲願とした、衣川の関。数多の血が流された関を拓いて建設されたのが、中尊寺、毛越寺、そして政治の府である平泉館だ。伽藍の内外、屋根まで黄金で荘厳した「皆金色」の金色堂。高さ5丈(約15m)の堂内に、高さ3丈(約9m)の阿弥陀仏坐像を中心に、左右に8体の丈六阿弥陀仏坐像(約4.6m)が安置された、平安時代最大の阿弥陀堂といわれる二階大堂。これらの堂塔、伽藍が40余、そして300を超える僧坊がひしめく中尊寺は、蝦夷よ俘囚よと踏みにじられてきた陸奥の誇りを、いかばかりか輝かせたことであろう。
それは決して栄耀栄華を顕示してのものではない。陸奥に流されたあまりにも多くの血を悼み、清衡自ら「中尊寺供養願文」に挿入した「官軍夷慮の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠を受くるもの、過視無量なり(中略)鐘声の地を動かす毎に、冤霊をして浄刹に導かしめん(官軍賊軍の区別なく、さらには人間だけでなく獣や鳥や魚介類さえも、梵鐘が大地を動かして響くごとに、故なくして命を落とした人々の魂を浄土に導かれんことを)」という美しい鎮魂の言葉に示されている通り、夥しい死者の霊を慰め、再び兵火に蹂躙されることのない仏国土を作るべし、という願いのゆえなのだ。
都をすらしのぐ壮麗な伽藍を建て、知の宝庫たる僧侶を養い、畿内5国を上回る田地を持ち、輸送や軍役に欠かせない駿馬を産し、優れた刀剣を鍛え、貿易港に恵まれ、莫大な黄金を独占し、自らは奪うことも滅ぼすこともしなかった陸奥。それは平氏を倒し、貴族から実権を奪い取って登極しつつあった源頼朝にとって、唯一にして最大の「スーパーパワー」だった。並び立つ途はなしと見た頼朝によって1189年、陸奥は征服されるが、頼朝は町にも寺にも敬意を払い、破壊を及ぼすことはなかったという。900年近い時の流れの中に多くの伽藍が失われ、いまや金色堂、浄土庭園といった、本当にわずかな痕跡が残されているに過ぎない。しかしすべての営為が、そして黄金の輝きが土に還ったとしても、祈りは永遠に陸奥の地を潤し続けている。
『婦人画報』で連載したシリーズ「美の聖地」より
日本は古く、日本列島の歴史はさらに時を遡る。南北に約3500キロメートル、小さなものまで含めれば3700を 超えるという島々の連なる花綵のごとき列島が、ひとつの美意識のもとに統一された「集権国家」だったことなど、その歴史の初めから一度としてなかった。世 俗の権力と聖なる権威、そして猥雑な経済力の在処はめまぐるしく入れ替わり、そこで育まれる美もまた、驚くほど多様な相を得た。浄いもの、卑俗なもの、単 純なもの、複雑なもの、穏やかなもの、激しいもの、洗練されたもの、粗野なもの──。ひとつの言葉で括ることの到底できないそれらは皆すべて、「日本の 美」だ。私たちが未だに知らないのは「本当の」「唯一の」日本の美ではない。あまりにも多様で、振幅の激しい、それゆえに豊かな、美の諸相なのである。
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お控えなすって、じゃなくて、引かないで。どこぞのご一家の出入りでも親分衆の集まりでもございません。こちら上野は東京国立博物館の一室。長く暗い廊下を通り、何の表札もかかっていない木製のドアを押し開けると、1937年の竣工以来そのままなのではと思わせる、古色蒼然としたたたずまいの空間が現れる。東博だけでおよそ1000振所蔵されている刀剣のメンテナンスをするため、この部屋へ月2回通ってくるのが、研ぎ師の小野博さんと、鞘師の森井敦央さんだ。
博物館や美術館というと、文化財の展示をする場所、と思いがち。しかし「公開」は博物館の持つ機能のごく一部でしかない。展示作品の何百、何千倍の規模で保管庫に眠る所蔵品を、次の世代へ無事に引き継いでいくための「保存」と「修復」に、莫大なエネルギーが注がれているのである。
絵画、彫刻、工芸、建築のいずれにしても、経過した時間なりの劣化や損傷は、ある程度なら「古色」「手沢」ということで許容される。ところが刀剣だけは、常に新品同様、打ちたてピカピカの状態で展示されているのが常。1000年前に制作された鉄の刀に錆びがないとすれば、当然研磨しているに違いない。それって鹿苑寺の銀閣に、「お、最近日に焼けて柱がくすんできたから、いっちょ鉋でもかけてスッキリするか」なんて無体を働くようなものでは?
「いえいえ。こちらでは、目で見えないくらいの小さな錆のスポットを見つけ出し、手当をするのが仕事です。全体を研ぐと刀が目減りし、その本質が失われてしまいますので、刀身の艶や刃文への影響がまったく出ないようにスポットだけを部分的に研ぐ、研ぎ継ぎという技法で研いでいます」。
と、保存修復課長の神庭信幸さん。文化財の保存・修復は「なるべく原状のまま」が建前だ。なるほど、打ちあがった当時のままの状態を保持する……とも、言えるのかも。ちなみに土中から出土した古代の刀剣などは、刀身に刻まれた文字等が読める程度に錆を落とした後、錆が進行しないよう、窒素を充填した展示ケースに展示される。
通常、刀剣を保管する場合は刀身に丁子油を塗り、白木の鞘に収める。刀の微妙な形状や反りに合わせて作られた鞘は、わずかな隙間を丁子油が埋め、鞘と刀身の接触を防げる。また内部が低酸素状態となるため、錆の発生も抑えることができる。
「ただ乾燥などで木が痩せたり、変形すると、変形した部分が刀身に当たって錆が出てしまいます。もともと保管用の白鞘は、二つに割ったものを、米粒を練った糊で簡易に接着して使っていますが、スポットが出た場合は鞘をもう一度割って、変形した部分を削り直します(森さん)」
やはり研ぎ師であり、東博で刀剣の研磨を手がけていたお父さまも小野さんも、本阿弥流の研ぎを修めた。本阿弥とは刀剣の鑑定、研磨、浄拭を家業とする本阿弥光悦の生家であり、光悦の従兄弟、光徳の頃に地位を確立する。父の後を継ぎ、40年にわたって東博へ通う小野さんの目には、かつてその刀を手がけた研ぎ師の意図が、研ぎの痕から読み取れるという。
「時代によって研ぎも多少変わってきますが、砥石の種類や手順は、現在でも『延喜式』に書かれたものとほぼ同様です。名刀には古い人の研磨が残っていますから、大変勉強になります。明治以降は化粧研ぎといって刃文をよりきれいに見せるための技術が加わりました。焼き入れされたときの刃文は変化することはありませんが、研ぎによって表面での見え方はまったく変わってきます。いまこちらにある刀は、ほとんどが明治から昭和初めにかけての研がれたもの。その研ぎに合わせ、自分の研ぎにはしないのが基本です(小野さん)」
月に2日来て、1振り仕上がればいい方、と小野さんは笑う。一度手入れが終われば、次に手入れの順番が回ってくるのは100年以上先。その刀身の輝きは、研ぎ師から研ぎ師へ、沈黙のうちに受け継がれていく。
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身分も資産もある家柄の出身者が多く、生没年を含めたバイオグラフィーが書きやすい琳派の絵師たちの中にあって、その起点となった俵屋宗達に関してだけは、一通の手紙を例外として、きれいさっぱりなんの記録も残っていない。人気はあってもは一介の町絵師だから、というのがその理由とされているが、「法橋」という、絵師としては最高級の称号(文化勲章のみたいなもの)を朝廷から受け、養源院のような格式ある寺院の障壁画の仕事をしているのだから、ステイタスから言って履歴が残っても不思議ではない。
そこが「謎の絵師」たる所以だが、ともあれ、天下の趨勢が定まり、世の中が戦乱からの解放感に酔いしれていた慶長年間(1596〜1615)、賑わう京都市中で名を取り沙汰されていたのが、町衆と呼ばれた商工業者たちを主な顧客に、扇の絵から掛軸、色紙、屏風までを売る、「俵屋」と号した絵屋の主人、宗達であった。
対する本阿弥光悦は、室町時代から刀剣の研磨、鑑定、浄拭を家業としてきた本阿弥家の出身である。阿弥という名字は、芸能や文化のコンサルタントとして室町将軍に仕えた側近たちが名乗ったものだから、本阿弥家も豊かな「文化資本」を蓄えた家柄だったに違いない。そういう家に生まれ育った光悦が評判を取ったのは、まず書であり(寛永の三筆!)、次いで茶碗であり、蒔絵であり、豪商角倉素庵と共同で企画した、嵯峨本と呼ばれる古活字本の出版事業であった。
この光悦の書から起こした木活字を刷る、華麗な料紙を制作したのが、宗達率いる俵屋スタジオである。互いの資質を認め合ったハイブロウな目利きの文化人と街場の天才は、以降コラボレーションを繰り返した。宗達が金銀泥で草花や動物を描いた大胆な下絵を差し出せば、光悦はその絵に呼応する和歌を選び、豊麗な書で応える。あたかも野放図な天才投手を名キャッチャーがリードして、三振の山を築くがごとき仕事ぶりなのである。
この日本美術史上最高ユニットによるコラボレーションの白眉こそ、銀色の鶴の大群が乱れ飛びながら舞い上がり、列をなして海を渡り、軽やかに舞い降りていく──まるで連続写真を見るように、14m近い巻子に圧倒的な迫力で展開される『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』だろう。下絵を見て触発されたものか、光悦の筆もいつも以上に抑揚に富んでいる。
ぜひ全巻を通してご覧いただきたいのだが、下絵のリズムと文字とをややずらすように書くことで、光悦は画面全体に奥行きを生み出している。練達のミュージシャンによるジャズのセッションのような競作を数々ものしてきた二人、時にバランスを崩した作品もあるが、本作はその現存最高の「ライブ音源」なのだ。
『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』34.0×1460.0cm、紙本金銀泥、17世紀前半、京都国立博物館蔵
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Web magazine 幻冬舎でも「日本の国宝」の連載が始まりました。
初回は尾形光琳『燕子花図屏風』。こちらでの連載と『ポンツーン』で続いている同名連載、さらに描き下ろし分をまとめ、最終的に幻冬舎新書から刊行予定です。
刊行時期は…今秋(目標)。
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フクヘン氏が報告しているとおり、現在パリ三越で陶芸展を開催中の細川護煕氏。日本ではメゾンエルメスで自身が筆を執った油彩画の展覧会が、また東京国立博物館では細川家に伝わる書画、陶磁、武具などを紹介する「細川家の至宝−珠玉の永青文庫コレクション−」展が、それぞれほぼ同時期に開催され、「春の細川祭り」の様相を呈しているのである。
メゾンエルメス8階フォーラム
「市井の山居」細川護煕展
4月22日〜7月19日、月〜土曜:11〜20時、日曜:11〜19時
会期中無休(5月19日を除く)、入場無料
中央区銀座5-4-1、03-3569-3300
細川さんとは永青文庫の所蔵品を紹介する『和樂』での連載を担当して以来のおつきあい(その前に一度、『BRUTUS』で取材したこともあるが)。湯河原と軽井沢で制作されている陶芸については、何度も取材しているし、京都(古美術柳)と東京(壺中居)で開催される個展にも毎回伺っている。書もここ数年数多く書いていたし、他に水墨、漆芸、茶杓などを作られることも聞いていたが、油彩画を描いているという話を伺ったときにはさすがに驚いた。
「陶芸もそろそろ飽きてきたかも」という細川氏が油彩画を描き始めたのは、この1年ほどのこと。半年ほど経った時点で、「実はもう50枚くらい描いているんだけど…」と告白(笑)された。どんなモチーフがいいのか、方向性は、など、その時点ではまだずいぶん迷っていたようだ。が、描きたい意欲は満々。聞けばタテヨコ3メートルはある大作も描いているという。ついては個展をやってみたいのだが、というお話をうけ、紆余曲折の末、このエルメスでの展覧会が実現したというわけだ。
とはいえ、細川さんと洋画はまんざらご縁がないわけでもない。祖父・細川護立侯爵は病弱だった若い頃から絵に親しみ、白樺派の学友の影響を受けて近代絵画に傾倒。世間の評価のいまだ定まらない頃の横山大観や下村観山を見出した。
その細川家と日本近代洋画との関係について、『和樂』での細川さんへのインタビュー記事を引用してみよう。
──護立侯はいつ頃から、どんな契機で近代絵画の収集を始めたのでしょう。
以前にお話ししたように、若い頃は病弱でしたから、安静な生活を進められ、絵画に慰められる時間が長かったようです。その頃、学習院の 同輩で特に親しかったのが、志賀直哉さん、武者小路実篤さん、有島(武郎・生馬)兄弟、児島喜久雄さんたちです。彼らの間にはヨーロッパの印象派のような 新しい絵画や文学に憧れる風潮が非常に強くあって、絵の写真を入手すると、その都度仲間が集まり、歓声を上げて見入っていたといいます。近代絵画への美意 識という意味では、彼らから受けた影響は少なくないでしょう。
実際に購入するようになったのは、20歳頃からのようです。祖父が水戸に住む知人 を訪ねた帰り、ちょうど天心に従って東京美術学校を辞め、茨城県の五浦で極貧の研究生活を送っていた頃の大観、春草、観山、武山がやっていた、展覧会に通 りかかったのだそうです。何気なく会場に立ち寄った祖父が、持っていた小遣いから1人1幅ずつ購入したのが、自分で買った初めての絵画作品だったようです が、当時の金で1幅30円という代金が、非常に高かったと、のちに書いています。この時の展覧会で は結局祖父以外に買い手はつかず、ただ1人買っていったあの若造は誰なんだと、4人の間でもずいぶん話したようです。
この時に買った大観の作品は、杉木立に時鳥が飛んでいるさまを描いた、小さな絵でした。あらたまって描いたというのではなく、興に乗じ てさらっと描いたような、静かな絵でした。祖父は大観の絵をずいぶんたくさん集めましたけれども、始めて買ったこの作品はのちのちまで特に気に入っていま した。
──ただ絵を買うばかりでなく、画家たちと親しくつきあっていらしたようですね。
大観と観山は互いに東京美術学校の第一期生で、天心と共に五浦へ移住した同志ではありますけれども、先に名前が売れ出したのは観山の方 だったので、大観の方で離れていた時期があったようです。ある酒席で彼ら2人と一緒になった祖父が、彼らに向かって「最近君たちは仲が良くないそうじゃな いか」と尋ねると、「いや、そんなことはありません」と言って、大観が観山を転がすなど、ふざけてあって見せました。
「じゃあ、2人合作で絵を描いてくれ」という祖父の注文にはずいぶん渋ったそうですが、結局話し合って描いたのが『寒山拾得』でした。観 山が寒山を、大観は拾得を描き、2人で1幅という非常に珍しい作品を仕上げています。また、大勢を引き連れて別荘へ行ったり、彼らの住まいを訪ねたりとい うことは、頻繁にありましたし、やりとりした膨大な書簡が残っています。大観は池之端に、大磯に安田靫彦、大森馬込に小林古径、それぞれ住んでいた作家た ちとは日中戦争前後から行き来することが増えました。
大観を始め、梅原龍三郎、平福百穂、安井曾太郎らを赤倉の別荘に招いたとき、温泉に浸かるくらいしかやることもありませんから、彼らに 手拭いの下絵を描けといって困らせたようです(笑)。平福さんなどは考えた挙げ句、庭から枯れ葉を拾ってきて、それを描いたと言います。
またこの赤倉の別荘には、食堂から居間に続く場所に大きな杉戸が2枚ありました。ある年、ここに大観がフクロウを描いたのを機に、田中一 村や中村岳陵ら、大観に連なる画家たちが別荘に立ち寄ると、必ず1羽、新しい鳥を描き足すようになったのです。ただ、この杉戸の前には大きなテーブルが置 いてあって、そこで私たち子供はピンポンをやっていました。ゲームに熱中すると、勢い余って杉戸に体当たりすることもしょっちゅうでしたが、いま考えると ゾッとする話です(笑)。毎年9月1日から始まる院展には、夏中滞在している軽井沢の別荘から、上野へ駆けつけて、必ず見ていました。大正12年も院展を観に上京していたため、関東大震災に東京で罹災しています。
──細川さんご自身は彼らと交流はあったのですか?
中学生くらいの頃、祖父に連れられて、何度か池之端にあった大観邸に伺ったことがあります。いかにも国士的な風貌というのか、宮本武蔵 の肖像画のような雰囲気の方でした。酒豪で知られているように、午前中にお訪ねしても、酒臭い(笑)。ほかにも、湯河原にあった安井曾太郎さんの別荘にお 邪魔したり、梅原龍三郎さんと一緒に富士山のスケッチに行ったりしています。
──最初は刀剣から始まり、禅画、東洋陶磁、そして近代絵画へ。護立侯のコレクションの間口の広さは驚異的です。
一方で祖父は、同時代の松永耳庵や原三渓などと違い、茶陶、茶道具とは距離をおいていました。それは、これまでの日本美術を見る目、その 収集が、ほとんど茶に元を発しているため、世界の美術に対して普遍的な態度を取ることが出来ないから。だから自分は茶から距離をおくのだ、と書いていま す。もう少し美術全体を、俯瞰的に観たいという思いがあったのでしょう。日本の画家の作品だけでなく、セザンヌやルノワールも持っています。
(細川護煕氏談)
うーむ。すごい。さすが細川家(笑)。梅原龍三郎にスケッチ指導を受けた現存画家は、そうはいないだろう。そんな次第で、下地は既に十分お持ちというわけ。絵画展はすでにドイツでの開催も決まっていると聞く。60歳での政界引退を機に始めた陶芸を10年でものにした「凝り性」が、今後どんな絵を細川さんに描かせるのか。晴耕雨読の70代、恐るべし。
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取材帰りに神楽坂方面から飛来した怪電波に捕まり、日本料理店「來経(きふ)」へ。こちらは千葉学氏設計の集合住宅の1階を、オーナーご夫妻が料理店として経営されているもの。オーナーご夫妻の兄上であるNYクリスティーズの山口桂さんがイケメン建築家の友人と会食しているというので、乱入させていただいた次第。
桂さんのブログに詳細がレポートされているが、いらしたのはレム・コールハースの事務所でパートナーを務める重松象平さん。桂さんのブログの頻出メンバーなので、初対面でもよく知っている相手のような気分。ガチンコ建築話…になるはずもなく、昼間ご覧になったという歌舞伎から、桂さんがヤクザの事務所へ美術品の査定に行ったときのエピソードまで、爆笑に次ぐ爆笑の無礼講ナイト。
さて「あざなえるご縁」について先日内田樹先生がブログに書いておられたが、この山口桂さんはご一族揃って能と縁が深く、国立の生家には能舞台があり、奥さまも元能楽師。内田ご夫妻の話は「大倉源次郎さんからずっと聞いていて」、先日内田先生の奥さまが出演された舞台もご覧になっている。
一方、桂さんの父上で82歳になる桂三郎氏は国際浮世絵学会の会長(『BRUTUS』浮世絵特集の折にもご協力いただいた)、また合気道家で、かつて植芝道場で学んだ方だという。
ということは内田先生の師である多田宏先生とは相弟子ということか。多田先生と言えば、「地上最強の80歳」。桂三郎氏も未だに桂さんを片手で投げ飛ばす遣い手だそうで、「父の超克」という男子に必須の通過儀礼が、物理的には一生果たせそうにないと嘆いていらした。
その桂さんが6歳の頃から机を並べて学んだ幼馴染みのご学友で、『クラシック迷宮図書館』の著者、片山杜秀さんと、4月17日にトークショウをさせていただくのがウチの父こと高橋源一郎、という次第。もうホントに、人間はどこでどうつながっているかわかりません。あ、ちなみに私も『芸術新潮』で小さい書評記事を書かせていただきました。
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NYクリスティーズで日本・韓国美術部門のヘッドを務める山口桂さんがすでに詳細なレポートをアップしているので、「私は書かなくてもいいや。らくちんらくちん」などと思っていたが、当日の様子を別の視点から書き残しておくのも一興と(写真もないしね)、簡単なメモを書いておくことにした。
まず、今回の茶事の亭主は、武者小路千家15代家元後嗣の千宗屋(せん・そうおく)さん。彼が主催者となる茶事は、ある特定の一日だけ催されるのではなく、「シリーズ」として断続的に2週間ほど続く。その中のある一日、集った客と亭主とが共有した「一座」のお話である。
さてゲストについては、桂さんのブログから引用させていただこう。
〝集まった昨晩の連客は、正客となる実業家T氏の他、有名写真家U氏、古美術商T 氏、懐石料理店経営・数寄者Nさん、現在Y美術館でソロ・ショウが開催されている現代美術作家Tさん、「外人枠」の筆者、そして或る意味最も重要な「お詰め」は、ライターで千氏のお弟子さんでも有るH女史が担当〟
それぞれの人に、それぞれのご縁があってこの茶事に連なっているわけだが、現代美術作家Tさんこと束芋さんについては、去る2月15日にあったフクヘンこと『BRUTUS』副編集長鈴木芳雄さんとのトークショウ「才能の発見」の席上、村上隆さんのスタジオで催された茶会(亭主が千さん、鈴木さんが連客)に言及されたこともあり、だったらとお誘いした次第なのである。
ツイッターでも少し書いたが、お茶というとひたすらかしこまって正座し、茶碗を3回まわしてワン、いや碗……というようなイメージをお持ちの方が多いと思う。もちろん正座も茶碗をまわすシーンも存在するが、それだけでやっているわけでもない(正座にも茶碗回しにもある合理的、美的理由が存在する)。
「ピアノのお稽古」の果てに、(人によっては)プロのピアニストとして演奏会を催す、という目指すべき頂がそびえているように、本来「お茶のお稽古」が最終到達目標と設定しているのは、「茶事で亭主を務める」ことである。「お点前」を学ぶ理由は、そこに尽きる。かつて存在していた行儀見習いとか花嫁修業、というお題目はその学びの過程で身につく副産物の、誇大広告みたいなものなのである。実際、ヨメが茶人だったら道具は買うわ茶事は催すわの、道楽者も同然。家計の危機は必定である。「ご趣味は」「お茶を少々」などという茶の湯女子には十分注意された方がいい。
ともあれ、「茶人の正課」であり、茶の湯のエッセンスが詰まった「茶事」は、緩急に富んだ4時間に及ぶプログラムで、「緩」の方ではガンガンお酒の出る「宴」も用意されている(もちろん必要以上に乱れてはいけない)。その「緩」があってこそ、後に来る「急」、濃茶の席が厳しく引き締まり、集中できる──という塩梅なのである。
プログラムは炭点前→懐石→濃茶→薄茶と進む。濃茶席の〝ガチムチ〟な道具を含む当日のしつらいについては、桂さんのブログでお読み下さい(手抜き)。
桂さんも書いているように、濃茶の席に登場したのは真塗りの水指に黒樂茶碗、そして同じく真塗りの小棗。玄妙な黒のグラデーションはしかし、いつしか茶室の闇の中に存在感を溶かしこんで、消えていく。
道具はお客をもてなす「ごちそう」のひとつではあるけれども、最終的にはそこに集った人、そしてその間で生じているコミュニケーションこそ茶の湯の本質である──という、利休の本意(だと千さんは考えているし、私もまったく同意)を、強く、はっきりと打ち出した道具組みだった。
しかも紹鷗−千利休−山上宗二という制作者(発注者&プロデューサー)はそれぞれ、師弟関係にある。室町最末期から桃山にかけて、茶の湯を一気に革新した〝ガチムチ〟革命家たちの系譜を浮き上がらせ、そこに連なる自身、という千さんのある種の覚悟をも、明らかにしている。
ちなみに我々は7人で2合程度、舐めるように美酒を味わった草食系ゲストだったが、前日のお客さま方は5人で2升を空けた酒仙の集まり。しかも芳名帳に残された揮毫に一分の乱れもなし。「ぬぬ、デキるな」と、イエローカード連発のお詰として、密かに感心した次第。
また後日談になるが、茶事の翌日の夜、束芋さんからノート8ページにもわたる「茶事図解」の下書きがpdfで届いた。当日のしつらいから懐石の内容、道具の詳細までびっしりと描き込まれている。手控えで終わるのか、なんらかの作品に生かされる日が来るのか、それはまだ誰にもわからないが、1日がかりで記憶を頼りに描ききった束芋さんの集中力にも感服。見事な「客ぶり」でした。
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『Casa BRUTUS』で連載中の「ニッポンの老舗デザイン」第14回(09年12月号)では、京都の染織「染司よしおか」を取り上げた。
形を作るばかりが「デザイン」ではない。「色」の設計もまたデザインだとすれば、色が厳密なルールとコードに則って運用されていた時代のそれに肉薄する染司(そめのつかさ)よしおかの仕事は、現代のもっとも先鋭なデザインだと言えはしないか。
ジミシブどころか明るく、鮮やかに澄んだ色、色、色。これらはすべて奈良、そして平安時代に用いられた染色技術によって制作されたものだ。現代ではいつ、どんな色を身にまとうかは、個人の嗜好に委ねられているが、かつて色とその組み合わせは、使い手の社会的地位や教養、洗練度まで表現する、厳密で広大な記号の体系をなしていた。
インスピレーションの赴くまま、ではなく、資料に残る古代の色を可能な限り正確に再現するという、色の文化のいわば「発掘」を行っているのが、京都に200年続く染め屋、染司よしおかの5代目、吉岡幸雄(よしおかさちお)さんだ(以下略)。「ニッポンの老舗デザイン」第14回「染司よしおか」より
その吉岡幸雄さんの仕事の中でも、最近目にする機会の少なかった東大寺の伎楽衣装や法隆寺の幡などが、来年平城京建都1300年を迎えるのを機に、今回の日本橋高島屋での展覧会を嚆矢として、頻繁に出展されることになりそうだ。
12月17日〜25日まで、日本橋高島屋8階ギャラリーで開催された「日本の色、万葉の彩り」展。ご案内を『BRUTUS』編集部宛にいただいていたので、開催を知ったのは、久しぶりに編集部に顔を出した24日。最終日の25日夕方になんとか駆け込むことができたのだが、事前に分かっていたら、ガンガン広報して大勢の方にご覧いただきたかった、素晴らしい展示だった。
同じく東大寺伎楽装束より、部分。
東大寺管長のための袈裟。起源は、インドの仏教僧侶が身にまとっていた布だが、仏教がより寒冷な地方に伝播するにつれて、下衣が着られるようになり、中国に伝わる頃には本来の用途を失って僧侶であることを表す装飾的な衣装となった。日本に伝わってからは、さらに様々な色や金襴の布地が用いられるようになり、その組み合わせによって僧侶の位階や特権を表すものになった。
日本史で習ったあの「獅子狩文錦」の復元。これほど鮮やかな色だったのかと言葉を失う。
東大寺の修二会で使われる椿の造り花。この造花のための和紙の染めを染司よしおかが手がけている。
物販はデパート展のお約束だが、それぞれの商品に凝らされた技術は、天平〜平安時代の染織技術がそのまま応用されている。いわば宇宙開発や軍事といった超高度な技術を研究する企業が、オーバースペックな技術を民生用に転換した製品のようなもの。ロハス系「草木染め」のイメージを見事に覆す、異次元の迫力を湛えている。
染司よしおか●京都市東山区新門前通大和大路(縄手通)東入●075・525・2580、10時~18時、夏期・年末年始休。基本は「染め屋」なので、既製品ばかりでなくオーダーも受け付ける。仕立てや織りの部分も相談に乗ってもらえるので、オリジナル度の高い注文が可能。
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小学館の『和樂』では「殿」担当を務めている、腰元ハシモトである(おお脚韻も踏んでるし、いい感じ)。別に「アレ、ご無体な」「いいではないか、いいではないか」という話ではなく、なぜか大名家系連載を担当することが続いているという意味なのだが。
2008年1月号から15回にわたって連載した「大人の女性のための日本文化塾」は、〝「細川家」で知る、日本の美と知の遺産〟として、茶道具から武具甲冑、書画、洋画まで、細川家→永青文庫所蔵の名品を、専門家の解説+現当主・細川護煕氏のコメントと共に紹介した。
そして2010年1月号から始まったのが、水戸開藩400年記念「水戸徳川家の美と知と心」である(なんかタイトル似てますが…)。こちらは御三家、天下の副将軍・水戸光圀公で有名な水戸徳川家の所蔵品(彰考館 徳川博物館)がテーマ。初回スペシャルに続き、2月号では茶道具をテーマに、名物中の名物「新田肩衝」を舐めるようにご紹介している(2010年1月12日発売予定)。
ちなみに「新田」は楢柴肩衝、初花肩衝と共に天下三肩衝と呼ばれた茶器のひとつ。村田珠光から三好政長、織田信長、明智光秀、大友宗麟、豊臣秀吉と戦国大名の間を渡り歩き、大坂夏の陣で落城した大坂城の焼け跡から救い出されて徳川家康の元へ。その後、家康の11男・頼房(よりふさ・水戸徳川家初代)に譲られ、今日まで水戸徳川家に伝わっている家宝である。
それはともかく、細川護煕氏に取材でさまざまに伺ったお話の中に、軽井沢の別荘が何度か登場した。護煕氏の祖父護立(もりたつ)侯が建てた別荘で、敷地は3万5千坪という広大なもの(当時)。まだ軽井沢が別荘地として拓かれはじめた黎明期で、現在のように樹木も生い茂っておらず、薄野原にぽつぽつ木が生えている状態だったという。
その薄野原に、護立侯は友人の「徳川さん」と訪れ、互いにステッキを投げて「ステッキから向こうは細川家、こっちは徳川家」という、タイヘンに大らかなというか、ノーブルな方法で敷地をお決めになったそうだ。
この時同行された「徳川さん」が、徳川宗家か御三家(+徳川慶喜家以外、「徳川」姓はいない)のどちらかは伺わなかった。そのまますっかり忘れていたのだが、水戸徳川家の新連載が始まり、12月20日に連載第3回の取材で水戸に伺い、こちらの現当主、斉正(なりまさ)氏にお話をお聞きしていたとき、ふとしたきっかけで話が「水戸徳川家の軽井沢の別荘」に及んだ。
はて、どこかで聞いたような。
おおそーだそーだ護立侯のステッキ投げの話だ、と伺ってみたところ、まさにどんぴしゃ。斉正氏の祖父にあたる圀順(くにゆき)公が護立侯と薄野原でステッキを投げ合ったのだと判明したのである。
その後、相続のために敷地をきちんと測量し直さなければならなかったのだが、「あの樅の木から白樺の木まで」的な取り決めを確認する樅も白樺も既になく、両家の間でいろいろ苦労があったようだ。
細川家の別荘は規模を縮小して現在も存続しているが、水戸徳川家の別荘は田中角栄氏が購入、現在は財団法人「田中角栄記念館」の分館になっている(木造2階建、約500平方メートル。大正期に軽井沢の別荘建築を多数手掛けた「あめりか屋」による)。副将軍から闇将軍へ。ともあれ旧水戸徳川家別荘は国の登録有形文化財の指定を受け、現在一般公開が検討されているという。
ちなみに2010年4月20日から、東京国立博物館で特別展「細川家の至宝−珠玉の永青文庫コレクション−」が開催される。東博、京博、九博と国立3館を巡回する大規模展。なにやら細川氏と某人気マンガ家との対談が企画されているとも聞き及んでいる。情報解禁になり次第、告知していくのでフォローよろしくお願いします。
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